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10月, 2023の投稿を表示しています

13-1-1. キリスト教と仏教では天と地ほどの大きな違いがあります。それは?

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教が、世界五大宗教と呼ばれています。厳密に言えば、世界宗教とは、民族・人種・文化・地域を越えて広がった宗教です。そういう意味では、ユダヤ教とヒンズー教は民族宗教で、日本の神道も民族宗教と定義されます。仏教だけは創造神を認めていませんが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教は、唯一絶対の同一の創造神を信仰の絶対的拠り所としています。 人類文明の歴史を俯瞰してみると、一神教と仏教の違いが際立っています。日本では学校で宗教を教えないためか、「神といっても仏といっても、名前が違うだけで同じようなものだ」と思っている人が多くいるようですが、多くの点で天と地ほどの大きな違いがあります。それを以下の6つの観点から分かりやすく超ダイジェスト版でまとめてみます。 1. 開祖と聖典 2. 世界観 3. 人間観 4. 科学との関係 5. 運命と罪悪 6. 救い        1−1. キリスト教の開祖と聖典                          開祖はイエス・キリストです。唯一絶対神ヤハウェのただ一人の御子で、奇跡を起こせる超自然的存在だと信じられています。約2000年前、現イスラエル北部ナザレの大工ヨセフと、マリアが婚約し、マリアは結婚する前に精霊によって処女懐胎し、処女の母マリアから生まれたと信じられているのが、イエスです。 熱心なユダヤ教徒であったイエスは、30歳過ぎから「この世の終わりが近づいているから、悔い改めて神を信じよ」と説き始め、数々の 奇跡 によって多くの苦しむ人々を救いました。 三年後、神の子を偽称したという罪で十字架上で処刑されました。 最後に、「エリエリレマサバクタニ」(わが神 よ、何ゆえにわれを見捨てたもうや ) と言ったと記されています。 そして、この神の一人子の処刑という生贄により全人類の原罪が贖われたと信じられています。 死後3日でイエスは 復活 し、弟子たちの前に姿を現し、40日間地上に留まった後、天に昇ったと記されています。 その後弟子たちは、「イエスこそ救世主(キリスト)だ!イエスを信じれば、死後、この世が終わる時の最後の審判で神の国に入れてもらえる」とユダヤの人々に説き始め、キリスト教が誕生しました。 拠り所とする聖典は、イエスの3年間の言行録などを弟子たちがまとめた『新約聖書』と、も

12-3 戦いについて、一神教に次いで、ブッダの故事と言葉を上げてみます

  ①シャカ国が、隣国と水源地を争って戦争が起きようとしていました。このことを知ったブッダは、急いでシャカ国に帰り、今や戦闘を始めようとしている両軍の真ん中に立ちました。ブッダの姿を見て、両軍は動揺しました。 ブッダは、「何故ここに集まったのか」と両軍の首領に質問しました。 首領は、それぞれ「戦うために集まった」と答えました。  で、ブッダは、「何事で戦うのか」となおもたずねました。 すると首領は、「農耕の水を確保するために」と答えました。 そこでブッダはさらにたずねます。「人の生命と比べて農耕の水はどれほどの値打ちがあるというのか。何故に農耕の水のために、この上ない価値を持つ人間の生命を奪おうとするのか。」 さらにブッダは、「人間はつまらぬ誤解のために争いを起こし互いに傷つけ殺し合うものであるから、正しく理解し合わねばならない。つまらぬ誤解がもとで万人が付和雷同して悲惨な最後を招くものであるから、注意しなければならない。」と説きました。 「かくして両国の人々は心から喜んで戦いをやめることができた。」と伝えられています。 ② シャカ国が、大国マガダに攻め滅ぼされようとしていました。シャカ国の人たちはブッダに窮状を訴え、救国のために弓矢を取って戦うように哀願しました。かつて騎馬戦の勇者であったブッダは、ブッダに従って出家した多くのシャカ国の若者を率い、自ら弓矢を取り騎馬でマガダ国を攻め滅ぼすことをせず、こう言いました。  「恨みを抱く人たちの中で恨むことなく、安らかに生きよう。恨みを抱く人たちの中で、恨むことなく暮らしていこう」。          「勝利からは恨みが起る。敗れた人は苦しんで終わる。勝敗を捨てて、安らぎを大切にした人は、安らかに終わる」。             ブッダは、予言されていた全インドを徳によって統一する転輪聖王の道を選ばず、生老病死に苦しむあらゆる人々を救う覚者の道を選ばれたのです。  ③教団の分裂を企てた弟子がいました。その弟子は凶暴な象にブッダを踏み潰させようとしましたが、ブッダが象に優しく呼びかけると、象はブッダの前におとなしくひざまずきブッダに従いました。更にその弟子は、山の上から大岩を落とし、ブッダの足の指から出血させました。 しかし、ブッダはその弟子を許しました。弟子たちは「何故許されるのか」とたずねました。 ブッダは「彼は前世

12-2 更に『旧約聖書』にある戦い

前回から続きます。神の命に従いヨシュアはエリコを攻め取りました。 ④神の命に従うヨシュアは連戦連勝と思っていましたが、なぜかアリで負けました。 「アカンという男が神の約束を破って戦利品を隠し持っていたから、アカンと家族を石で打ち殺され火で焼かれた。」と。 ヨシュアは、次は戦利品は誰にも取らせませんと神に申し上げたところ、主はヨシュアに言われた、 「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさ人を皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたの物とすることができる。」と言われました。 「イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、剣をもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、剣をもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。」 「ただし、その町の家畜と、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。」 そのとき、神は戦いの先頭に立ち、 「主は天から彼ら(アイの住民)の上に大石を降らし、多くの人々が死んだ。イスラエルの人々が剣をもって殺した数よりも、雹ヒョウに打たれて死んだもののほうが多かった。神はイスラエルのために戦われた。」 ⑤ヨシュアは更に侵攻し、全地を得ます。 「その日ヨシュアはマツケダを取り、剣をもって、それと、王を撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼして、ひとりも残さず、エリコの王にしたように、マツケダの王にもした。ヨシュアは更に、エグロンを滅ぼした。」 「こうしてヨシュアは、その地の全部、すなわち、山地、ネゲブ、平地、および山腹の地と、そのすべての王たちを撃ち滅ぼして、ひとりも残さず、すべての息あるものはことごとく滅ぼした。イスラエルの神、主が命じたとおりであった。」 「ヨシュアはカデシ・バルネアからガザまでの国々、およびゴセンの全地を撃ち滅ぼして、ギベオンにまで及んだ。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った。」 ⑥この時、ヒビの住民以外にイスラエルと和を講じた町は一つもなかったが、それは神がそうさせ

12-1 十字軍遠征や世界植民地化などに見られるキリスト教徒の攻撃性・侵略性はなぜか?

十字軍遠征や世界植民地化などに見られるキリスト教徒の攻撃性・侵略性はなぜなのか?キリスト教の母胎となったユダヤ教と古代ユダヤ民族の歴史に、その糸口があるのではないかと想定し、その観点から探ってみることにします。 ①古代ユダヤ民族は、紀元前17世紀イスラエルの地に定住、大飢饉、エジプト移住、紀元前13世紀エジプト脱出、ユダヤ王国建国、紀元前6世紀王国滅亡、バビロン捕囚、ペルシア支配、ギリシア支配、紀元前1世紀ローマ支配、紀元1世紀イエスの伝道活動、反ローマ蜂起・玉砕などと、超悲惨な運命に翻弄されていきました 。 そのような果てしない苦しみの中で、ユダヤ人は自分たちを救ってくださる強い全知全能の唯一絶対神を必要とし、民族絶滅を乗り越えていこうとする強烈な祈りと願いが『旧約聖書』(ユダヤ教ではタナハと呼ぶ、イスラム教でも大切にされている)に、血の涙で記されていったのではないかと推察されます。『旧約聖書』にはユダヤ人に向けられた唯一絶対神の激烈な言葉が多く 記されて います。それらを見ていきましょう。 ②「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、 ねたむ神 (thy God am a jealaus God )だからである」と出エジプト記34章14に 記されて います。 「他の神を拝んではならない」は、モーセが神から授けられた十戒の一番目の戒めです。 出エジプト記:ユダヤ人が奴隷とされていたエジプトから、モーセが先導して脱出した故事。神は、海を開いてユダヤ人を逃がしきると、海を閉じて追いかけてきたエジプト軍を全滅させた。 ③「あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテ人の全地にわたり、日の入る大海に達するであろう」とヨシュア記に記されています。約束の地カナンと呼ばれます。ヨシュアはモーセの後継者です。。 約束の地カナンは、今のイスラエルとほぼ同じ地域です。因みにコーランにも「この地に住み着きなさい」と書かれています。ユダヤ教のユダヤ人とイスラム教のアラブ人=パレスティナ人にとっても共通の神の約束の地となりました。近年のDNA鑑定で、カナンの地に住むユダヤ人とパレスティナ人のDNAが同じであることが明らかにされました。同じDNAの

11-1-2 大航海時代の日本植民地化を危うく回避

  ①マゼランがフィリピンに来てから40年で、フィリピンは当時世界最強の国家であったスペインの植民地とされ、スペイン国王フェリペ二世の名にちなんでフィリピン国と名付けられました。その頃、日本植民地化の先兵として日本に来たのが、イエズス会のフランシスコ・ザビエルです。16世紀に創設されたイエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊的規律で知られていました。ザビエルは信長に近づき、キリスト教布教と南蛮貿易の許可を得ました。戦国大名たちは、火薬の原料である硝石の入手を求め、見返りに領内での布教を認めました。そして、キリシタン大名16名、信徒数10〜30万人にまで増えていきました。 ②秀吉は、当初布教を容認していましたが、九州平定後、宣教師たちの先導により九州が非常に危険な状態となっていることを目のあたりにしました。 つまり、佐賀・長崎の領主が、キリシタン大名となり、寺社の破壊、僧侶を含む全住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の迫害、反対者の国外追放を行っていることを知りました。更にキリシタン大名は、長崎港周辺をイエズス会に寄進し、イエズス会が長崎の軍事要塞化を指示し、数年後には、大砲、鉄砲、軍艦を配備したということを知りました。 ???神道・仏教弾圧を正当化する理由: イエズス会の観点からすれば、日本人が神仏と称しているものは、悪魔にほかならず、この悪魔から解放することなしに日本人の魂の救済は不可能なのだ。??? ③更に秀吉は、ある事件から、スペインの日本植民地化戦略を知りました。それは、明を植民地化したいが、宣教師から得た情報ではスペイン単独では軍事的観点から無理なので、鉄砲の保有数が多く実践経験も豊富な九州のキリシタン大名に命じ、共闘して明を攻略し、明征服後、明も加えた軍事力で日本全部を攻略し植民地化する、というものでした。九州のある藩の鉄砲保有数が、イングランド全体よりも多かったという情報もあります。 ④また、数万人規模の日本人が奴隷として南蛮商人によって、東南アジア・欧州・中南米に輸出されていることも知りました。 ???奴隷売買を正当化する理由: 異教徒は人間ではない。キリスト教徒の奴隷になると、宣教師の洗礼を受けてようやく人間となる。奴隷であっても人間になった方が良い。それが本人の魂の救済であるし、またそうすることが神への奉仕となる。??

11-1-1 キリスト教と世界:迫害、国教化、十字軍、植民地

次に、キリスト教と世界の関わりについて調べてみようと思います。 ①ローマ帝国によるキリスト教迫害、1〜4世紀: キリスト教がローマ帝国内で広まるにつれて、キリスト教徒はローマ帝国の多神教や皇帝崇拝に反対することで、異端者や反逆者とみなされるようになりました。ローマ帝国は1世紀から4世紀にかけて、断続的にキリスト教徒を迫害しました。ローマのコロッセウムでキリスト教徒をライオンに襲撃させる見世物が、民衆を最も狂喜させたと言われていたようです。   ②ローマ帝国によるキリスト教の国教化、4世紀: 迫害にもかかわらず、キリスト教徒は信仰を守り続け、むしろ増加していきました。そして、北方のゲルマン民族大移動により、ローマ帝国が弱体化していく中で、ローマ皇帝はキリスト教を公認し、キリスト教以外の宗教を禁止し国教化しました。これはローマ帝国を維持するために、キリスト教の唯一絶対神による権威付けと、キリスト教徒の支持獲得を必要としたためと考えられます。 ③ローマ教皇による十字軍派遣、11〜13世紀: ローマ教皇は、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを大義名分に、十字軍従軍兵に天国行きを約束し、十字軍派遣を呼びかけました。それに応え十字軍は侵攻し、イスラム教徒等の大量虐殺・強奪等を7回にわたり繰り返しました。 ④西洋列強とローマ教皇によるアジア・アフリカ・アメリカ征服、15〜17世紀: ローマ教皇が、15世紀にポルトガル国王に与えた特権の抜粋です。 「キリストに敵対するいかなる者をも、襲い攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼らの王国、主権、支配、不動産を問わずあらゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷におとしめる為の、完全かつ制約なき権利を授与した。」 未開の異邦人たちにキリスト教を布教し改宗させ救ってやり文明化してやりたいとするローマ教皇と、西洋列強の利害が一致し、両者の共同作戦となりました。ローマ教皇は航海船に必ず説教師を同乗させました。到着地では、宣教師は現地の指導者に近づき、住民の布教活動を行い、現地情報を収集し報告する、商人により奴隷貿易を含む交易を行う、頃合いを見て指導者に改宗を勧め、拒否されると、軍隊が派遣され大量虐殺を行い征服し植民地化しキリスト教国化するというのが基本戦略でした。 植民地では、大規模農園耕作や鉱山開発のために住民に奴隷労働を強制しました。軍

間違いを修正しました 10-2-1 1〜10世紀の日本文学から観る:万民平等のシラス統治精神の具象化『万葉集』

  間違いを読者の方から指摘していただき、調べ直し修正しました。 1〜10世紀の日本の代表的な文学作品と簡単な内容は以下の通りです。 ・1世紀:漢字が最初に日本に伝わりました。「漢倭奴国王」の金印等が証拠です。 ・2世紀〜4世紀:口承文学が生まれましたが、現存する資料はありません。 ・5世紀:話し言葉に漢字を当てはめた万葉仮名が生まれました。 ・7世紀:聖徳太子により『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書が漢文体 で著されました。 万葉仮名で書かれた日本最古の和歌集『万葉集』が8世紀にかけて編纂され、 4500首以上収録されています。 ・8世紀:天皇中心の氏族伝承が記され、『古事記』『日本書紀』が編纂されました。 これらは「記紀」と呼ばれ、神話・歴史・歌謡・和歌を含む日本文学の基礎となり ました。『古事記』は万葉仮名で、『日本書紀』は漢文体で書かれています。 諸国の地理や物産、地名などに関わる伝承を記録した『風土記』が成立しました。 これは『古事記』『日本書紀』を補う資料として注目されます。 日本最古の漢詩集『懐風藻』が編纂されました。また、『続日本紀』が編纂されました。 ・9世紀・『竹取物語』や『伊勢物語』などが書かれ、日本最古の長編物語の 『宇津保物語』が書かれました。『日本霊異記』も書かれました。 ・10世紀:『古今和歌集』が編まれ、和歌の発展に大きく寄与しました。 『枕草子』や『土佐日記』などの随筆が書かれ、女流文学が隆盛しました。 『源氏物語』が著され、日本文学の最高傑作として世界的にも評価されています。 ◯私評:『万葉集』は、天皇や貴族だけでなく、下級官人や農民、防人、 一般女性などさまざまな身分や地域の人々により詠まれました。 万民平等の シラス統治 の精神が具象化されたものとも言えるでしょう。 この精神は 歌会始め として今日まで伝わっています。 当時、地方に派遣された国司は、地方豪族の師弟などに『日本書紀』と『万葉集』 を講義し信頼関係を醸成し、武力ではなく文化力により朝廷の権威が地方に浸透 していったと考えられます。 当時の西洋では文字使用は特権階級の男性だけに限られていたようで、 多くの一般庶民がいつ文字を使って文学作品が書けるようになったのか 確かな情報がネット上にありません。 どなたかご存知の方がおられれば教えてください。 お詫び:前

10-2-1 1〜10世紀の日本文学から観る:万民平等のシラス統治精神の具象化『万葉集』

1〜10世紀の日本の代表的な文学作品と簡単な内容は以下の通りです。 ・1世紀:漢字が最初に日本に伝わりました。「漢倭奴国王」の金印等が証拠です。 ・2世紀〜4世紀:口承文学が生まれましたが、現存する資料はありません。 ・5世紀: 話し言葉に漢字を当てはめた万葉仮名が生まれました。 ・7世紀:聖徳太子により『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書が 漢文体で著されました。 万葉仮名で書かれた日本最古の和歌集『万葉集』が8世紀にかけて編纂されました。 4500首以上収録されています。 ・8世紀:天皇中心の氏族伝承が記され、『古事記』『日本書紀』が編纂されました。 これらは「記紀」と呼ばれ、神話・歴史・歌謡・和歌を含む日本文学の基礎となりました。 『古事記』は万葉仮名で、『日本書紀』は漢文体で書かれています。 諸国の地理や物産、地名などに関わる伝承を記録した『風土記』が成立しました。 これは『古事記』『日本書紀』を補う資料として注目されます。 日本最古の漢詩集『懐風藻』が編纂されました。 また、『続日本紀』が編纂されました。 ・9世紀・ 『竹取物語』や『伊勢物語』などが書かれ、日本最古の長編物語の 『宇津保物語』が書かれました。『日本霊異記』も書かれました。 ・10世紀: 『古今和歌集』が編まれ、和歌の発展に大きく寄与しました。 『枕草子』や『土佐日記』などの随筆が書かれ、女流文学が隆盛しました。 『源氏物語』が著され、日本文学の最高傑作として世界的にも評価されています。 ◯私評:『万葉集』は、天皇や貴族だけでなく、下級官人や農民、防人、一般女性など さまざまな身分や地域の人々により詠まれました。 万民平等の シラス統治 の精神が具象化されたものとも言えるでしょう。 この精神は 歌会始め として今日まで伝わっています。 当時、地方に派遣された 国司は、 地方豪族の師弟などに『日本書紀』と『万葉集』を 講義し信頼関係を 醸成し、 武力ではなく文化力により朝廷の権威が地方に浸透していったと考えられます。 当時の西洋では文字使用は特権階級の男性だけに限られていたようで、 多くの一般庶民がいつ文字を使って文学作品が書けるようになったのか 確かな情報がネット上にありません。 どなたかご存知の方がおられれば教えてください。