近代史の常識を覆した歴史的瞬間 1943年11月、東京で世界史的にも極めて重要な会議が開催されました。それが「大東亜会議」です。 学校の教科書では大きく扱われることの少ない会議ですが、実は「近代以降、世界で初めて有色人種(アジア人)のみで行われた首脳会談」という、歴史的に極めて大きな意味を持っています。それまでの世界は、欧米の白人国家が有色人種を植民地として支配するのが「当たり前」とされていた時代でした。大東亜会議は、そうした当時の国際秩序に一石を投じる試みだったのです。 会議には、日本、満洲国、中華民国(汪兆銘政権)、タイ、フィリピン、ビルマの首脳が参加し、オブザーバーとして自由インド仮政府のチャンドラ・ボースも出席しました。 1943年11月5日・6日の両日にわたり開催されたこの会議において、出席した各国首脳や代表たちは、それぞれ強い高揚感や決意、そして日本への期待を表明しました。彼らが遺した具体的な言葉から、当時の情勢と彼らの思いを振り返ります。 各国出席者が遺した言葉 1. バ・モウ(ビルマ首相) 会議で最も熱弁を振るい、アジアの連帯を強く訴えたのがビルマのバ・モウでした。彼は西洋による過酷な植民地支配の歴史を振り返り、アジア人が自立して集まれたことへの感動を次のように表現しました。 「今日、私たちはここに集まり、アジア人としての声を挙げています。長い間、私たちは自らの声を持たず、他者の声に従わされてきました。しかし今、私たちは自分たちの運命を自分たちの手で決めるためにここにいます」 「アジアの解放という大いなる理想のために、日本が先頭に立って戦ってくれたことに、私たちは深く感謝します。インドの独立なくしてアジアの自由はありません。私たちは一丸となって戦い抜くべきです」 2. チャンドラ・ボース(自由インド仮政府首脳・オブザーバー) インド独立運動の指導者であり、当時は国家として未独立のためオブザーバーとして参加したボースは、インド解放とアジアの団結に向けて、不退転の決意を語りました。 「イギリス帝国主義を打倒し、4億人のインド人を解放するまで、私たちの闘いは終わりません。この大東亜会議は、単なる政治的な集まりではなく、アジアの諸民族が自由と正義のために立ち上がった歴史的な道標です」 「東アジアの諸国がこのように手を取り合い、互いの独立を尊重し合う姿を見て、...
日本の学校教育やマスメディアでは、戦前の日本を「悪の侵略国であった」とする自虐的な歴史観が大勢を占めています。しかし、歴史には必ず表と裏、正と負の両面が存在します。 今回は、教科書がほとんど触れようとしない、大東亜戦争がもたらした「アジア諸国の白人植民地支配からの解放と独立」という大きな歴史のうねりについて、具体的な事実をもとに振り返ってみます。 1. 白人支配を打ち破った独立への胎動――ビルマとフィリピンの戦い ◯30人の志士とビルマ独立 開戦後、日本軍は破竹の勢いで東南アジアに進出しました。その目的の一つが、長年白人の過酷な植民地支配に苦しんでいたアジア諸国の独立支援です。 ビルマ(現ミャンマー)では、日本軍の「南機関」(鈴木敬事大佐ら)が、アウンサン(のちの独立の父)をはじめとする青年たち「三十人の志士」を集め、過酷な軍事訓練を施しました。これがのちに「ビルマ独立義勇軍」へと発展します。 わずか250人で始まった義勇軍は、日本軍と共にイギリス軍を追い払う過程で、4万人規模にまで膨れ上がりました。それだけ現地の人々が白人の支配から脱却することを切望していたのです。1943年8月、独立を果たしたビルマの初代大統領バ・モウは、独立宣言の中で次のように日本への深い感謝を述べています。 「ビルマ人は、アジアを一つにまとめてアジアを救うに足る指導者を熱望していたが、大日本帝国にその光を見た。ビルマに対する最大の貢献をしてくれた日本への感謝を永久に記録にとどめたい」 ◯アメリカの「約束反故」とフィリピンの悲劇 一方、フィリピンの歴史も複雑です。1898年の米西戦争の際、アメリカはフィリピンの革命家たちに「スペインを追い出すのに協力すれば独立させる」と約束しました。しかし、勝利したアメリカはその約束を完全に無視し、フィリピンを自国に併合したのです。 これに抗議して立ち上がったフィリピン人に対し、アメリカ軍は過酷な鎮圧を行いました(米比戦争)。この戦いを指揮したのが、のちに日本にやってくるダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサーです。この戦闘やそれに伴う飢餓等により、少なくとも20万人以上のフィリピン人が命を落としたと言われています。 その後、約50年間にわたりアメリカの植民地となったフィリピンですが、1943年に日本軍がアメリカ軍を駆逐したことで、ようやく独立を宣言...