4. 清国の「タダ乗り」と小村寿太郎の苦闘 その後、小村は清国との「満州善後条約」交渉に臨みます。ここでの清国の態度は驚くべきものでした。 日本は10万人近い戦死者と、国家予算の約7倍(約20億円)という天文学的な犠牲を払い、ロシアを満州から追い出しました。しかし、一滴の血も流していない清国は「ロシアが去ったなら、全ての権利をタダで返せ。日本人もすぐに出て行け」と主張したのです。 小村は粘り強い交渉の末、なんとか条約を締結。日本は「侵略」ではなく、あくまで「国際条約に基づいた正当な権利」として満州の一部に留まることになったのです。 5. 満鉄がもたらした近代化:略奪ではなく「投資」 日本が引き継いだ当時の満鉄は、ロシア製の広軌(線路幅が広い)で設備も貧弱なものでした。日本はここに莫大な資本を投じ、国際標準の線路へと改修し、世界最新鋭の特急「あじあ号」を走らせるまでに発展させました。 それだけではありません。日本は鉄道沿線に病院、学校、図書館、公園などの公共施設を次々と建設しました。これは軍事占領とは一線を画す「近代化への投資」であり、荒野だった満州に治安と文明をもたらした「正の側面」です。このインフラ整備があったからこそ、後に多くの人々が満州へと移住し、活気ある都市が形成されたのです。 6. 伊藤博文の懸念と清国の条約無視 1906年、政府トップが集まった「満州問題に関する協議会」で、伊藤博文はこう断言しました。 「我々が関わっていいのは租借地と鉄道付属地だけだ。それ以外の土地は直ちに清国へ返すべきである」 伊藤は国際協調を最優先しましたが、清国側はこの日本の譲歩を逆手に取ります。条約で「満鉄と並行する線路(競合路線)は作らない」と約束したにもかかわらず、清国は日本を追い出すためにこの約束を無視し、満鉄を圧迫する並行路線の建設を強行しようとしました。日本は条約を守り、清国はそれを破る――。こうした不当な圧迫が、後の満州事変へとつながる緊張を生んでいったのです。 7. 結び:耐え忍ぶ26年間の始まり 日露戦争後、日本は満州を支配したのではなく、むしろ鳥取県よりも狭い「関東州」という限られた土地の中で、国際条約を遵守し、清国の不当な要求や排日運動に耐え忍ぶ状況にありました。 「日本が満州を奪った」という一方的な歴史観では、当時の日本人が注いだ情熱や、条約を守ろうとした誠...
2026年2月8日、私たちは日本の歴史が動く瞬間に立ち会いました。第51回衆院総選挙において、自民党は小選挙区249(総数289)、比例代表67(14を他党に、総数176)、合計 316議席 (総数465)という、過去最多の議席を獲得し、歴史的な大勝利を収めました。 連立与党の日本維新の会と合わせれば352議席。この圧倒的な数字は、高市総理が掲げた**「日本列島を強く豊かに」**という決意に対する、国民からの「力強い信任」そのものです。私たち支持者が待ち望んでいる「強く豊かな日本」への一歩が、更に大きく踏み出されました。 「高市早苗の覚悟」に日本列島が震えた 今回の選挙戦、何より私たちの胸を熱くしたのは、高市総裁の揺るぎない信念でした。「高市早苗が内閣総理大臣でいいのか」と、自らの覚悟を真っ向から国民に問い、**「責任ある積極財政」**への大転換を訴え続ける姿。過去三ヶ月の実績に裏付けられたその真摯な言葉が、日本中の隅々まで響き渡り、大きな共鳴の渦を巻き起こしました。 遊説先での熱気は凄まじく、小泉・安倍政権を越える多くの聴衆が随所で集結。報道で優勢が伝えられてもなお、「一票の重み」を説き、最後まで危機感を持って走り抜く高市総裁の姿に、「このリーダーなら日本を任せられる」との確信が深まりました。 日本列島を埋め尽くした「自民圧勝」の赤色 開票結果は、まさに圧巻の一言です。 31都県で小選挙区を独占 。 激戦の東京・神奈川・埼玉といった都市部でも勝利を収め、宮城・三重・沖縄では現行制度下で初の 全勝 を達成。 東京、神奈川、埼玉、北信越、中国の各ブロックでは、自民党候補がすべての議席を勝ち取るという、かつてない快挙を成し遂げました。 比例代表でも得票数は2,000万票を突破。小選挙区での勝ちすぎにより、14議席が他党へ割り振られるという嬉しい悲鳴もありましたが、全ブロックで第一党、得票率も軒並み高水準を記録しました。これは、特定の層だけでなく、日本列島全体が高市政権の背中を押している証拠です。 「雪を溶かす熱意」で政策の大転換へ 8日夜、開票センターで見守る高市総裁は、雪の中での選挙戦に協力したすべての人々へ、深い謝意を述べられました。「どうしてもこの時期に信を問うべきだった」という言葉には、一刻も早く日本を成長軌道に乗せたいという、総理の強い責任感が滲んでいました。...