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16−2−1.大英帝国の植民地拡大

①全体像: 大英帝国は、最盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を支配し、世界史上最大の領土面積を誇った帝国でした。当時唯一の超大国と呼ばれる地位にありました。植民地獲得はまず北アメリカから始まり、アメリカ合衆国が独立すると、アジア進出に力を入れ、インドを手中にしその富と傭兵を活用して、さらにアフリカ、オセアニアに進出していきました。 ②北米・カリブ海植民地植民地進出: 英国の北米・カリブ海植民地進出は16世紀後半から始まりました。17世紀に入ると、ピルグリム・ファーザーと呼ばれる移民、および貧困・犯罪を理由に送り込まれた者たちにより植民地は広がりました。前者は国教会の信仰体制に不満を持った急進プロテスタント(ピューリタン)が信仰の自由を求めて新大陸に植民した者たちです。大まかにいって北部はプロテスタント、南部は国教会・カトリックに色分けされます。後者はより数が多く、年季奉公人として新大陸に送り込まれ、南部植民地の煙草プランテーションや、カリブ海植民地の砂糖プランテーションで労働力として用いられましたが、後者は数が多く、年季奉公人として新大陸に送り込まれ、南部植民地の煙草プランテーションや、カリブ海植民地の砂糖プランテーションなどで就労しました。 しかし、不満を抱いた入植者たちによる反乱により、アフリカ黒人奴隷への転換が行われることになりました。 英国は北米での植民地獲得をスペイン・オランダ・フランスとそれぞれ争い勝利し、植民地を拡大していきました。しかし、その戦費獲得のため、植民地への課税が強化されると、 東海岸沿いの13州の 植民地の激しい反発が起こり、1775年に独立戦争が起こりました。戦争当初は英国が優位に立っていましたが、総司令官ジョージ・ワシントンの善戦に加え、英帝国の弱体化を望み植民地側に同情的だった欧州諸国や義勇軍が助力参戦し、英国は1783年のパリ講和条約でアメリカ合衆国の独立を認めざるをえなくなりました。 カリブ海植民地では、黒人奴隷が人口の多数を占めました。これは多くがプランテーション用労働力として連れてこられたためでした。カリブ海植民地は、治安維持と奴隷の反乱防止のために英帝国の軍事力を必要としており、帝国の保護化を離れることは不可能であったため、アメリカ合衆国の独立に際し、英帝国にとどまりました。 アメリカ合衆国独立以後、英国は植民地化の主眼

16−1.明治時代の日本

  1.国を開いた明治時代の日本は、欧米列強の 植民地 化を免れるために猛スピードで 近代化 を推進し、日清戦争・日露戦争に勝利し、不平等条約を改正し、非白人国家として初めて西洋列強と対等な地位を獲得するに至りました。そして欧米列強によるアジア・アフリカ植民地支配体制の崩壊の端緒が開かれることになりました。この間、富国強兵政策を推進し、日本の産業革命の時代となりました 。 2.当時、日本にとって最大の脅威はロシア帝国でした。極東進出を狙うロシアは、 ヨーロッパと極東を結ぶシベリア鉄道の建設に着手し、満州を占領しました。この鉄道は、ロシアの極東進出を加速させ、更に朝鮮半島に手を伸ばそうとする南下政策により日本への脅威が更に高まりした 。 3.朝鮮政府はロシアの侵略を嫌い、日本と清国に軍隊派遣を要請し、両国は応じました。ロシアの脅威が除かれた後も、両軍は引き上げず、清国は朝鮮の歴史的冊封体制を主張し日本は朝鮮の独立を主張しました。 4. 朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因で、1894年から1895年にかけて、日清戦争が起こりました。主に朝鮮半島と遼東半島、および黄海で交戦しました。日本側はこの戦争に勝利し、下関条約によって終結しました。大国清国に何故勝てたのか?装備は双方ほぼ同格だったようですが、清国軍は傭兵であったため戦況が不利になると兵が逃げ出したことが勝因の一つと考えられます。 この条約により、朝鮮は独立し、遼東半島、台湾、澎湖諸島は日本領となりました。この戦争の勝利により、日本はアジアの近代国家として認められ、国際的地位が向上しました。 5.日本の10倍の国力を有していたロシアの南下政策を止めようとして、日露戦争が、1904年から1905年にかけて戦われました。この戦争は、朝鮮半島と満洲の支配権を巡る争いが原因となって起こりました。戦争の主な戦場は、旅順攻略戦、奉天会戦、そして日本海海戦でした。特に日本は日本海海戦で劇的な勝利を収め、軍事的な成功を収めました。最終的に両国はアメリカ政府の斡旋の下で、ポーツマス条約により終結しました。 ポーツマス条約の中で、日本はロシアの影響力を排除し、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を獲得しました。また、日本はロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も手に入

15-3-3. 近世における日英の出会い:④日英の対峙:なぜ日本は植民地化を回避できたのか?

西欧列強の狙いは、英国が維新側を、フランスが幕府をそれぞれ支援し、双方の全面衝突により国内が混乱したところで軍事介入し、日本を列強で分割し植民地化しようというような目算があったと思われます。 幕府側は、フランスの新鋭武器を有し軍事力で維新側より優位にありましたが、徳川慶喜は維新側との戦い を思いとどまり、幕府がお預かりしていた政治権力を朝廷にお返しすると英断し、王政復古が平和裏に実現しました。 さらに、旧体制(徳川幕府)の軍事中枢である江戸城が無血開城され、新体制(維新側)との全面軍事衝突が回避されました。英国では国王は処刑されましたが、将軍は処刑されることなく徳川家は現在まで続いています。 戊辰 ボシン 戦争で双方で使われた銃が、米国製であり、南北戦争の後、大量に在庫されていたものを、英国経由維新側へ、仏国経由幕府側へ売られたそうです。軍服も同様だったと言う人もいます。西欧による日本植民地支配は眼前に迫っていたようですね。 まあよくぞ、無血開城ができたものです。勝海舟(幕府)、西郷隆盛(維新側)、山岡鉄舟(調停者)の三人の人間力の大きさに敬意を表します。三人とも禅者だったようです。政治思想的には、徳川光圀が編纂した『大日本史』に端を発した皇室を尊崇する水戸学が底流をなしているようです(最後の将軍徳川慶喜は水戸藩当主)。 日本以外での政治革命は、激烈な権力闘争となり、イギリス革命、フランス革命、ロシア共産革命、中国共産革命もみな大量の血で血を洗うものでした。日本がそうならなかったのは、日本古来のシラス統治の精神が、日本人のDNAに脈々と引き継がれてきたからでしょうか、ありがたいことです。 幕府側の人材も維新政府で登用され各方面で活躍しました。オランダ製軍艦に乗り函館の五稜郭に立てこもり独立宣言を発出し最後まで維新軍と戦った幕臣榎本武揚 エノモトタケアキラ は(26歳でオランダ留学)は降伏後、海軍大臣、外務大臣などを歴任しました。 近代日本資本主義の父と言われる渋沢栄一も下級幕臣でした。大和の精神が脈々と生きているのですね。因みに維新側の主な人物も多くは下級藩士出身でした。そう朝廷の中心人物岩倉具視も下級公家でした。当時は、能力が高く志の高い若い人たちが大活躍できた社会だったようです。 維新政府の中心メンバーの大半が大挙して、欧米視察に長期間にわたりでかけ、先進文明

15-3-2. 近世における日英の出会い:③産業革命:なぜ英国で起こり日本で起こらなかったのか?

英国で産業革命が起こりましたが、産業革命がなぜ英国で起こったのか、なぜ日本で起こらなかったのかについて、私なりの考察をしてみたいと思います。 1、巨大な富: 強力な軍事力により世界海上貿易における優位性を獲得した英国は、アフリカ人奴隷を、南北アメリカのプランテーション農園や鉱山に送り込み、農産品や鉱物資源を欧州に送るという三角貿易体制を確立し、巨大の富を蓄積し、その富が産業革命の原資となり、植民地を、原料の供給地(新大陸アメリカ)、奴隷労働の供給地(アフリカ)、工業製品の市場(地球で最も人口が多いアジア地域とヨーロッパ)としました。 例えば、インド産綿織物の英国への輸入で大幅輸入超過でしたが、綿織物製造工程の工業化に成功し、インドとの貿易を大幅輸出超過に変えました。 清との貿易も当初は入超でしたが、植民地インドで12歳未満の労働者を使役しアヘンを栽培し清に輸出し、大幅出超としました。 2、技術革新: 様々な分野で多くの発明がなされ、綿織物工業、製鉄業、蒸気機関による新動力源の開発など様々な分野で産業革命を遂げました。 3、土地の制約からの自由: 産業革命以前の世界は、一定の土地から食糧とエネルギー資源(森林資源)を再生可能な形で産み出していかなければならないという「土地の制約」がありました。 しかし、英国は新大陸から豊富な食糧を輸入でき、国内の豊かな石炭を使用でき、「土地の制約」から自由になれた。また、新大陸からの食糧輸入の結果、農村人口が都市に流出し都市化が進みました。 4、知的財産権: 英国においてのみ、名誉革命において知的財産権が確立されるとともに、海外貿易における国家独占が弱まり、金融制度が改善され、社会の幅広い層にビジネスチャンスが広がっていきました。 5.なぜ日本で産業革命が起こらなかったのか: 微積分を発明したのは、ドイツのライプニッツと英国のニュートンと言われていますが、ライプニッツの発明以前に、和算家の関孝和が行列式による連立方程式の解き方を発明していました。識字率は日本は男女を問わず7−8割ありました(英国は男性は6−7割か、女性はかなり低い)。 金融においても先物取引所などが世界に先駆けて開発運営されました。 戦国時代に火縄銃の大量生産に成功し、生産量と品質で英国やスペインを凌駕するまでになりました。当時の技術開発力は相当なものであったと思われ