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16−1.明治時代の日本

 

1.国を開いた明治時代の日本は、欧米列強の植民地化を免れるために猛スピードで近代化を推進し、日清戦争・日露戦争に勝利し、不平等条約を改正し、非白人国家として初めて西洋列強と対等な地位を獲得するに至りました。そして欧米列強によるアジア・アフリカ植民地支配体制の崩壊の端緒が開かれることになりました。この間、富国強兵政策を推進し、日本の産業革命の時代となりました


2.当時、日本にとって最大の脅威はロシア帝国でした。極東進出を狙うロシアは、ヨーロッパと極東を結ぶシベリア鉄道の建設に着手し、満州を占領しました。この鉄道は、ロシアの極東進出を加速させ、更に朝鮮半島に手を伸ばそうとする南下政策により日本への脅威が更に高まりした 。


3.朝鮮政府はロシアの侵略を嫌い、日本と清国に軍隊派遣を要請し、両国は応じました。ロシアの脅威が除かれた後も、両軍は引き上げず、清国は朝鮮の歴史的冊封体制を主張し日本は朝鮮の独立を主張しました。


4.朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因で、1894年から1895年にかけて、日清戦争が起こりました。主に朝鮮半島と遼東半島、および黄海で交戦しました。日本側はこの戦争に勝利し、下関条約によって終結しました。大国清国に何故勝てたのか?装備は双方ほぼ同格だったようですが、清国軍は傭兵であったため戦況が不利になると兵が逃げ出したことが勝因の一つと考えられます。

この条約により、朝鮮は独立し、遼東半島、台湾、澎湖諸島は日本領となりました。この戦争の勝利により、日本はアジアの近代国家として認められ、国際的地位が向上しました。


5.日本の10倍の国力を有していたロシアの南下政策を止めようとして、日露戦争が、1904年から1905年にかけて戦われました。この戦争は、朝鮮半島と満洲の支配権を巡る争いが原因となって起こりました。戦争の主な戦場は、旅順攻略戦、奉天会戦、そして日本海海戦でした。特に日本は日本海海戦で劇的な勝利を収め、軍事的な成功を収めました。最終的に両国はアメリカ政府の斡旋の下で、ポーツマス条約により終結しました。

ポーツマス条約の中で、日本はロシアの影響力を排除し、朝鮮半島における権益を認めさせ、ロシア領であった樺太の南半分を獲得しました。また、日本はロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も手に入れました。

この戦争によって日本は世界から列強と認められるようになりました。また、長く過酷な植民地支配を受けているアジア・アフリカの人たちに、独立への希望を与えました。


6.明治維新後、33年で八幡製鉄所を稼働させ、近代兵器を自国生産し、38年で超大国ロシア帝国を陸戦・海戦で打ち負かすという前例のない猛スピードで近代国家建設を成し遂げた明治の人たちの強烈な精神力と努力には尊敬の念しかありません。ありがとうございます。

                    やまとこたろう


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