今回は、日露戦争のわずか6年後の1910年に行われた日韓併合について見ていきたいと思います。
①日韓併合の背景:大韓帝国の実情と日本の安全保障
日韓併合は、日本が武力で一方的に制圧・占領したものではなく、当時存在した李氏朝鮮の最後の姿である大韓帝国が、日本の統治下に入ることを選択し、「韓国併合に関する条約」によって実現したものです。
日韓併合の対象となった大韓帝国は、現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国です。元々「朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」という国名でしたが、この王朝は1392年から約500年間朝鮮半島を支配していました。高麗の臣下であった李氏が明の力を借りて建国した経緯から、明、そしてその後の清の属国として長い歴史を歩みました。
李氏朝鮮時代の約500年間は、両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が権力を握り、多くの国民が貧困と搾取に苦しんでいたとされています。人口も減少傾向にあり、文化的な停滞も見られました。これについて歴史家の崔基鎬(チェ・ギホ)氏は、「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である」と述べています。日韓併合前の朝鮮半島は、このように国民の窮乏と文化的な停滞が長く続いた歴史を持っていました。
1895年の日清戦争で勝利した日本は、その後の日露戦争を経て、清の支配から李氏朝鮮を独立させました。これにより、朝鮮半島は500年ぶりに独立し、大韓帝国が成立したのです。
②ロシアの南下政策と日本の危機感
話は前後しますが、当時の日本にとって最大の脅威はロシアの南下政策でした。ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下すれば、北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と、九州の北に位置する朝鮮半島によって日本は挟撃される形となり、日本の安全保障は一層深刻なものになります。そのため、朝鮮半島は日本にとって、何としても死守しなければならない生命線でした。
しかし、国力が衰退していた李氏朝鮮には、自力でロシアの脅威から朝鮮半島を守る力はほとんどありませんでした。そこで日本は、朝鮮半島の近代化を支援し、ロシアの進出を阻もうとしましたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然これを許そうとしませんでした。
③日清・日露戦争と日本の影響力確立
日本は清国を排除すべく、1894年から1895年にかけて日清戦争に踏み切りました。結果は世界の予想に反して日本が勝利し、朝鮮半島における影響力を確立することに成功します。しかし、旧宗主国である清国に代わって、今度はロシアが朝鮮半島に対する影響力を強めてきたのです。
朝鮮自身は、自国の改革や産業振興、防衛力強化への機運が乏しかったため、ロシアの力がますます強まっていく状況でした。前述の通り、朝鮮半島は日本の生命線であったため、日本は臥薪嘗胆(がしんしょうたん:目的達成のために苦労に耐えること)を重ね、ついに1904年、ロシアとの開戦に踏み切ります。この日露戦争の結果も、世界中の大方の予想を裏切り、日本が勝利を収め、朝鮮半島に対する影響力を確固たるものとしました。
これにより、李氏朝鮮は独立して国号を大韓帝国と改めました。朝鮮の王であった高宗は念願叶って自らを「王」から「皇帝」に格上げし、清の皇帝と肩を並べることになります。しかし、この独立は、清に代わって日本の影響下に入る形となり、その後の日韓併合へと繋がっていくことになります。
④日本国内の併合に関する議論
当時、日本国内では朝鮮半島へのアプローチに関して大きく二つの意見がありました。
一つは、伊藤博文を中心とした、朝鮮と一体化するのは得策ではないという考えです。彼らは、あくまで朝鮮を独立国として扱い、日本が積極的に近代化を支援することで、朝鮮の自立を促すべきだと主張していました。
もう一つは、日本が日清戦争よりはるか以前から朝鮮の近代化を支援してきたにもかかわらず、朝鮮側が近代化や産業振興、防衛力強化への主体的な動きをほとんど見せない現状に危機感を抱いていました。彼らは、このまま朝鮮を放置すれば、日本が再び紛争に巻き込まれる可能性が高まると考え、これ以上の戦争を避けるためには、韓国を併合するしかないという立場をとっていました。
この論争は、伊藤博文が韓国の安重根によって暗殺されたことを契機に、日韓併合論が優勢へと傾いていくことになりました。
やまとこたろう
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