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38.日韓併合期の朝鮮半島における近代化の進展と社会の変化

 

日本は、1910年から1945年までの朝鮮統治期において、朝鮮半島を日本の一部と位置づけ、日本内地に準じた政策を推進しました。この統治期には、日本からの財政支援や技術導入により、インフラ整備や社会システムの近代化が進展しました。


これに伴い、人口1300万人が2600万人に倍増し、平均寿命も24歳が56歳に倍増し、識字率4%が65%に向上し、身分解放が進むなど、社会に大きな変化が見られました。



財政支援

併合前、大韓帝国の財政は破綻状態でした。日本は無利子、無期限で多額の財政支援を行いました。1907年度の大韓帝国の歳入は748万円でしたが、必要な歳出は3400万円でした。日本は不足分2700万円全額を負担しました。


その後も、国家歳入の大部分を日本が負担することになりました。日本は1910年から1944年までの間に、未償還の公債に立替金などを合算すると、累計20億円以上を朝鮮に支出することになりました。1910年度の日本の国家予算5億5000万円と比較しても多額であり、日本にとっての朝鮮半島の重要性を示唆しています。



インフラ整備

併合後に置かれた朝鮮総督府は、土地調査に基づき、鉄道(約5000km)、ダム、上下水道、病院、学校、電話、郵便などの社会インフラを整備していきました。


例えば、日満国境(現在の中朝国境)に建設した水豊スイホウダムは、約60万kwの大出力で、現在でも北朝鮮の電力供給の一翼を担っています。


また、鉱山業や製鉄業などの産業近代化、農業の機械化による生産性向上、造林事業、灌漑用水事業なども推進されました。



学校教育制度の整備

教育制度の整備も進められ、小学校の数は1910年の約100校から1943年には約4300校へと大幅に増加しました。


ハングル文字教育が推進される一方で、日本語(西洋近代語彙を翻訳した当時アジア唯一の言語)教育も同時に進められ、近代化に必要な人材育成が図られました。


1924年には日本で6番目の帝国大学となる京城帝国大学が設立され、多額の予算が投じられました。



身分解放

統治下では、数百年以上続いてきた奴婢や白丁といった賤民の身分制度が撤廃され、身分差別に対する法的な是正が図られました。これにより、旧賤民の子弟も学校に通うことが可能になりました。


また、裁判なしの刑罰禁止、残虐刑禁止、人身売買禁止など、従来の慣習的な悪弊の一掃も進められました。


一方で、ヤンバン(貴族特権階級)による既得権益を巡る反対運動が発生し、鎮圧されました。



植民地時代の遺産が、その後の国の発展にどのような影響を与えたかは、識者の間で様々な議論があるようですが、一つの見方として、次のようなものがあります。


米の収奪の対象とされてきた植民地は、独立後もなかなか経済発展ができていない国が多いようです。

一方、日本が日本の新しい一部として財政・技術支援した韓国台湾は経済発展し続け、すでに先進国となっています。いかがでしょうか?


                   やまとこたろう



                               

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