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20.イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドのGDPの推移;西暦0年から1900年代まで

①世界主要国であるイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドについての面白いグラフを見つけました。西暦0年から1900年代までの世界主要国の GDPの推移にみるグローバル経済史の流れ です。クリックしてご覧ください。このグラフから、次のことが読み取れます。 西暦0年:アジアのインド、中国、日本のGDPが記されている。                      1500年:欧米のGDPの記載が始まった。                    1700年:インドと中国のGDPが近づき、日本とイギリスとドイツのGDPが近づいた。                           1820年:GDP1位中国、2位インドが0年から1870年まで続く。日本が停滞しイギリスとドイツが抜いた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                       1870年:日本をのぞく5カ国のGDPが近づいた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                              1913年:アメリカのGDP成長率が異常に大きい。他の5カ国の成長が鈍化。この年のGDPは、1位アメリカ、2位ドイツ、3位中国、4位イギリス、5位インド、6位日本。                               1972年:GDP1位アメリカ、2位日本、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位インド。                                   1998年:イギリス、ドイツ、日本が鈍化のまま、中国とインドが急成長。 ②このグラフに人口・国土・資源・生産性を重ねて考えてみると、時代ごとの特徴が見えます。                                   17世紀まで:インド・中国的世界(アジア的世界)  人口が多く、国土・資源が多く、生産性が低い                                18・19世紀:イギリス的世界(20世紀後半のドイツ・日本・韓国も)  人口が少なく、国土・資源が少なく、生産性が高い                     19・20世紀:

19−3. 日米関係;日露戦争における英米の立ち位置とアジアへの影響

①日露戦争を少し客観的に眺めると、 ロシア 対 イギリス+アメリカ の構図が見えて来ます。 日本は朝鮮半島へのロシアの南下を阻止するのが国防上の最大の理由でしたが、イギリスやアメリカにとってはロシアの極東アジアにおける強大化を阻止することが主な課題でした。   当時世界の覇権を握っていたイギリスから見れば、ロシアが好き勝手に領土拡大、それも前途有望視された中国市場に手を出すのを黙って見ていられなかったのですが、世界各地に植民地を持つイギリスは、植民地での内紛鎮圧に精一杯で、とても極東までは手が回らなかったのです。 アメリカはこの頃には新興国から大国になっていましたが、ロシアは依然アメリカを成り上がりものと格下扱いしていました。アメリカとしては、その存在感を世界に誇示する必要性を感じていました。 また、アメリカは、海を隔てた巨大市場である極東アジアにおける権益獲得を狙っていました。 ② ロンドンとニューヨークでの戦費調達:                   日露戦争の戦費のほとんどは、グローバルに事業を展開する英国と米国の投資銀行により、ロンドンとニューヨークで調達されました。              英国は当時、圧倒的な経済力を持ち、同国の通貨であるポンドを全世界に流通させ、基軸通貨国として君臨していました。ロンドンの金融街シティは世界中の富が集まる場所となっており、英国はグローバル・スタンダードでした。       一方、米国は英国を追い上げる新興国としてその存在感を世界に示し始めていた時期で、ウォール街も英国のシティに準じる金融ハブに成長していました。 ・高橋是清の役割:                    高橋是清(のちに蔵相、首相)は、日本の外債発行を成功に導きました。高橋は英国と米国の金融街で世界の投資家に戦争の意義や合理性をアピールしました。英米の金融界もユダヤ系資本が多く、ユダヤ人のアンチロシア感情(ロシア国内でユダヤ人が苛烈な迫害を受けていたことからくる)も幸いし、彼らが率先して日本外債を引受け、日本の外債発行は成功しました。 日本が外債発行によって調達した資金は、その多くがポンドのまま英国の銀行に預けられました。これは英国から購入する兵器の代金を決済するための外貨が必要だったためです。 ③アメリカの仲介による講和条約締結:          

19−2.日米関係; 日米不平等条約

    ①江戸時代後期、日本に多くの西洋列強の船が来航するようになりました。彼らは日本の市場で自分たちの商品販売を求めており、あわよくば植民地にしてしまおうと思っていました(帝国主義)。 実際に清はアヘン戦争に負け香港をイギリスに奪われています。江戸幕府もそのことを知っており相当な危機感を持っていました。 200年以上鎖国していた日本は、西洋との交流が極めて限定的だったため、当時の軍事技術は西洋列強と比べてかなり劣っていました。 アメリカ船の砲弾はこちらに届くが、こちらの砲弾は届かないなどといった感じです。そもそも海軍を持っていなかったこともあり、アメリカの軍艦になすすべがありませんでした。 そんな圧力を受けながらの交渉だったため、植民地化という最悪の事態を避けるためには、条約を拒否するという選択はありえませんでした。 ②1854年(嘉永7年)に結ばれた日米和親条約は、アメリカの捕鯨船に対する燃料の補給など限定的な内容でしたが、1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約は、日本に強く開国を求め多くの不平等な内容を含んでいました。 江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、不平等な内容を改正するのに大変な苦労をすることになります。 日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれたのは、アメリカの領事裁判権を認めたことと片務的な協定関税率制度を採用したという点です。またその前の日米和親条約で締結された片務的最恵国待遇も日米修好通商条約で引き継がれており、これも不平等な点です。 ③領事裁判権を認めるとはどういうことかというと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けずアメリカの法律で裁くということ(治外法権が認められるということ)です。そのためアメリカ人に甘い判決が出るなどの弊害が出ました。 ④協定関税率制度というのは関税を決めるのに相手国の同意が必要で関税自主権がないということです。片務的なものですから日本が関税を変更するにはアメリカの同意が必要ですが、アメリカが関税を変更するには日本の同意が必要ではありません。 ⑤最後に片務的最恵国待遇ですが、これはアメリカ以外の国と同じような条約を結び、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件があるときは、アメリカにも自動的にその条件が当てはめられるというものです。これも関税率と同じくお互いの国が最恵国待遇を受けるのなら不平等で

19.日米関係;アメリカ帝国主義

後退していくイギリスに代わって 、新たに世界の覇権国家となっていくアメリカと日本の関係についてみていきましょう。 ①江戸時代にペリーが黒船に乗ってやってきたのは、友好的に貿易関係を結ぼうとやってきたわけではありませんでした。 産業革命によって飛躍的に進歩したイギリスやフランス、ロシアなどと同じように中国分割に遅ればせながら参画したい、日本を属国あるいは植民地にして自国の発展を強化したいという野望を抱えてやってきたわけです。 ②アメリカ合衆国が大陸を西に向けて 領土を拡大 する過程で、開拓の最前線の「文明と未開の境界線」がフロンティアと言われました。19世紀の西漸運動を通じてフロンティア・スピリット「開拓者魂」がアメリカ民主主義を増進させたという考え方があります。 しかし、19 世紀中ごろには領土は太平洋岸に達して、領土の拡大の結果として南部と北部の対立が生じて南北戦争となり、その危機を克服した後は、初めて一つの国家としてのナショナリズムが形成され、強力な連邦政府のもとで北部を中心とした工業国家建設が進められました。 ③アメリカの工業生産は、1880 年代からイギリスを抜いて世界一の地位を占めるようになっており、この間、資本主義は 第2次産業革命 を迎えて重工業化が進み、特に石油、鉄鋼、自動車などの工業で巨大な資本を必要とするようになりました。 その中で、 ロックフェラー 、 カ ーネギ ー 、 モルガン など、一代で財を築く大財閥が出現し、これらの巨大資本の政治への圧力も強まりました。 ④1890 年代、アメリカは巨大資本の形成から帝国主義(資本主義列強による植民地や勢力圏拡大を目指す膨張政策)の段階に入り、工業生産用の資源と工業製品の市場を求めて、中南米・太平洋・アジアに新たに海外領土・植民地を獲得するという アメリカ帝国主義 の時代となりました。 ⑤1898年 の 米西戦争 は、アメリカの帝国主義戦争の最初のものであり、それによってアメリカは プエルトリコ ・ フィリピン ・ グァム を領有し、旧宗主国スペインに キューバ独立 を認めさせました。キューバにたいしてはその独立を支援しながら、実質的な保護国化する憲法修正条項を押しつけました。 また同じ時期に ハワイを併合 しました。                       それ以前、アメリカ人入植者のクーデター