後退していくイギリスに代わって、新たに世界の覇権国家となっていくアメリカと日本の関係についてみていきましょう。
①江戸時代にペリーが黒船に乗ってやってきたのは、友好的に貿易関係を結ぼうとやってきたわけではありませんでした。
産業革命によって飛躍的に進歩したイギリスやフランス、ロシアなどと同じように中国分割に遅ればせながら参画したい、日本を属国あるいは植民地にして自国の発展を強化したいという野望を抱えてやってきたわけです。
②アメリカ合衆国が大陸を西に向けて領土を拡大する過程で、開拓の最前線の「文明と未開の境界線」がフロンティアと言われました。19世紀の西漸運動を通じてフロンティア・スピリット「開拓者魂」がアメリカ民主主義を増進させたという考え方があります。
しかし、19世紀中ごろには領土は太平洋岸に達して、領土の拡大の結果として南部と北部の対立が生じて南北戦争となり、その危機を克服した後は、初めて一つの国家としてのナショナリズムが形成され、強力な連邦政府のもとで北部を中心とした工業国家建設が進められました。
③アメリカの工業生産は、1880年代からイギリスを抜いて世界一の地位を占めるようになっており、この間、資本主義は第2次産業革命を迎えて重工業化が進み、特に石油、鉄鋼、自動車などの工業で巨大な資本を必要とするようになりました。
その中で、ロックフェラー、カーネギー、モルガンなど、一代で財を築く大財閥が出現し、これらの巨大資本の政治への圧力も強まりました。
④1890年代、アメリカは巨大資本の形成から帝国主義(資本主義列強による植民地や勢力圏拡大を目指す膨張政策)の段階に入り、工業生産用の資源と工業製品の市場を求めて、中南米・太平洋・アジアに新たに海外領土・植民地を獲得するというアメリカ帝国主義の時代となりました。
⑤1898年の米西戦争は、アメリカの帝国主義戦争の最初のものであり、それによってアメリカはプエルトリコ・フィリピン・グァムを領有し、旧宗主国スペインにキューバ独立を認めさせました。キューバにたいしてはその独立を支援しながら、実質的な保護国化する憲法修正条項を押しつけました。
また同じ時期にハワイを併合しました。 それ以前、アメリカ人入植者のクーデターによるハワイ王国滅亡以前に、ハワイ国王は明治天皇を訪ね、ハワイ王国の安泰のため次の提案をしました。 日本とハワイの連邦化/皇室と王家との縁談/同じ有色人種である日本人のハワイ(主にサトウキビ栽培)への移民促進(当時のハワイは西欧からもたらされた疫病により人口が激減していた)
日本政府はアメリカとの対立を避けるため、明治天皇の御真筆で丁重にお断りしました。 しかし、日布移民条約が結ばれ、官製の移民が1885年から1894年まで続き、総計約3万人がハワイに渡りました。
1899年には、フィリピン=アメリカ戦争でフィリピンを領有しました。これも中国分割への参入をねらってのことであり、中国分割での出遅れを解消すべく、中国に門戸開放等を要求することとなりました。
やまとこたろう
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