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34.日露戦争での日本勝利への世界の反応 

日本の勝利への世界の反応などをまとめてみます。


①インド初代首相ネルー:

「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩きつぶされると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかなわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、日本が勝ったのだ。

私は、自分たちだって決意と努力次第ではやれないはずはないと思うようになった。そのことが、今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは、日本なのだ。」


②中華民国建国孫文:

「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くにいたり、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた。」


③英国領ビルマの初代植民地首相バ・モウ:

「最初のアジアの目覚めは、日本のロシアに対する勝利に始まり、この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。

それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けだった。

ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。

日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の州発点と呼べるものであった。」


④トルコ皇帝:

「われわれは、日本人の成功を衷心から喜ばなくてはならない。ロシア人に対する日本人の勝利は、すなわちわれわれ有色人種の勝利である。

国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきではない。」


④ロンドンタイムズ(新聞記事):

「日本海軍の目標は、単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。これを撃滅することだった。そして、決意したことを成し遂げたのだ。その理由は、軍艦にも砲にも、乗組員の熟練度にも、戦術の巧拙にも求められない。

精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や、あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。対馬海峡の勝利は、武士道によってもたらされたものである。」


⑤アフリカ系米国人W.E.B.デュボイス:

「有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。

日本が有色人種を白人種の奴隷から救ってくれるので、有色人種は日本を指導者として従い、われわれの夢を実現しなければならない。」


⑥インドネシアの高校歴史教科書(2000年版):

「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。(中略)太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。」


⑦幕末〜明治の日本の名言

・吉田松陰:

「学問とは、人間いかに生きていくべきかを学ぶものだ。」

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」


・西郷隆盛:

「正しい道を踏み、国をかけて倒れてもやる精神が無いと、外国との交渉はこれを全うすることはできない。

外国の強大さに萎縮し、ただ円満に事をおさめようとして、自国の真意を曲げてまで外国の言うままに従えば、軽蔑を受け親しい交わりをするつもりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるであろう。」


⑧総括:                       

日露戦争における日本の勝利は、20世紀初頭の世界に大きなインパクトを与えました。アジア諸国には独立への希望を与え、欧米列強には驚愕と警戒感をもたらしました。この戦争は、その後の世界の勢力図や国際関係に大きな影響を与える転換点となりました。

                                          

                   やまとこたろう



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コメント

  1. 徹兄さま、こんにちは。たくさんの日露戦争へのコメント、私にとっては初見のものも多く刮目して拝読しました。まぁちゃん在りせば、どれほど喜ばれることでしょう!!

    返信削除
  2. コメントを読ませていただき、まぁちゃんが喜んでいるような気持ちがしました。ありがとうございます。

    返信削除

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