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30.日露戦争① ~負け戦になりかねなかった危うい状況~

 

①すでに解説したように、朝鮮国王が自ら政権をロシアに献上したこと(なんと売国奴な国王か)により、実質的に朝鮮はロシアの支配下となります。さらに、領土的にもロシアは朝鮮北部に攻め込み制圧してしまいました。その上、ロシアは満州の兵力を強化し朝鮮にも軍事要塞を造り始め、このまま放っておいたら、日本が危なくなってしまうことは、誰の目にも明らかな状況となってしまいます。これによって、日本はロシアが朝鮮に軍事拠点を完全に完成させる前に、ロシアを朝鮮半島から追い出す必要性に迫られます。



②しかし、次の表を見れば分かるように、戦力差は余りにも大きく、普通に戦えばまず勝てる状況ではありませんでした。

開戦前の戦力:  日本   ロシア

 最大動員兵力 100万人  208万人

 戦艦      6隻   15隻(開戦時、極東に7隻)

 海軍力    26万トン  80万トン

 鉄鋼生産力   5万トン 220万トン


この戦力差だけを見たら、後の大東亜戦争よりもひどいですからね。特に鉄の生産量に圧倒的な差がありますね。戦争が少しでも長引けば、物量の差で絶対に勝てません。だから、当時の政府の人たちは、戦争を始める前から、終わらせ方というのを考えて動いていたのです。



③じゃあ、どういう終わらせ方をしようとしていたか?まず大前提として、日露戦争の戦争目的は、朝鮮半島からロシア軍を追い出すことです。だから、陸軍で朝鮮半島を制圧し、日本が優位に立ったら、すぐに和平交渉に入り早期に戦争を終わらせるというのが、当時の日本政府のプランでした。そのために、開戦前から日本はアメリカに和平の仲介役をお願いしています。



④日本にとってこの戦いに負けるということは日本の存亡の危機を意味しますから、兵士の士気は高くとにかく必死でした。そのお陰もあって日本軍は多大な被害を出しながらもひるむことなく、朝鮮半島を一気に駆け上がり、なんと満州の奉天までロシア軍を追い返すことに成功します。


しかし、この時点で弾薬は尽きてしまっていて、これ以上の追撃はできないという状況に追い込まれてしまいます。もし、弾切れがばれてしまったら、ロシア軍に反撃されて日本軍は全滅してしまいます。そのため、日本軍は弾薬が尽きたということがロシア軍にさとられないように、「我々の戦争目的は達した。よってこれ以上無駄な争いをする必要はない」と堂々と構え進撃を止めて、ロシア軍を威嚇し続けます。実際は弾切れで、もし攻め込んでこられたらどうしようもないという状況で、講話条約締結まで堪え続けたのですから、物凄い精神力ですよね。普通の人間だったらきっと発狂しますよ。


このことはメディアにも公表されていませんでした。もしこの機密情報がロシア軍に漏れれば、講和条約なんて結べるわけもなく、無抵抗の日本軍を全滅させて朝鮮半島に舞い戻って、日本の敗北という形で終わることは、目に見えてますよね。



⑤一方、この機密情報を知らなかった日本人は、ポーツマス条約締結後に、「勝ったにもかかわらず、賠償金が取れないなんて、ふざけるな」といって怒ってしまったわけですね。その結果、日比谷焼き討ち事件という悲しいことになってしまったわけです。


さて、陸で圧勝した日本はさっさと講和条約を結びたかったのですが、ロシアは「陸では負けたが、海がまだ残っている。俺たちはまだ負けてない」と交渉に応じてくれません。次回は海の戦いについて述べます。



                    やまとこたろう



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