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15-3-2. 近世における日英の出会い:③産業革命:なぜ英国で起こり日本で起こらなかったのか?


英国で産業革命が起こりましたが、産業革命がなぜ英国で起こったのか、なぜ日本で起こらなかったのかについて、私なりの考察をしてみたいと思います。


1、巨大な富:

強力な軍事力により世界海上貿易における優位性を獲得した英国は、アフリカ人奴隷を、南北アメリカのプランテーション農園や鉱山に送り込み、農産品や鉱物資源を欧州に送るという三角貿易体制を確立し、巨大の富を蓄積し、その富が産業革命の原資となり、植民地を、原料の供給地(新大陸アメリカ)、奴隷労働の供給地(アフリカ)、工業製品の市場(地球で最も人口が多いアジア地域とヨーロッパ)としました。


例えば、インド産綿織物の英国への輸入で大幅輸入超過でしたが、綿織物製造工程の工業化に成功し、インドとの貿易を大幅輸出超過に変えました。

清との貿易も当初は入超でしたが、植民地インドで12歳未満の労働者を使役しアヘンを栽培し清に輸出し、大幅出超としました。


2、技術革新:

様々な分野で多くの発明がなされ、綿織物工業、製鉄業、蒸気機関による新動力源の開発など様々な分野で産業革命を遂げました。


3、土地の制約からの自由:

産業革命以前の世界は、一定の土地から食糧とエネルギー資源(森林資源)を再生可能な形で産み出していかなければならないという「土地の制約」がありました。

しかし、英国は新大陸から豊富な食糧を輸入でき、国内の豊かな石炭を使用でき、「土地の制約」から自由になれた。また、新大陸からの食糧輸入の結果、農村人口が都市に流出し都市化が進みました。


4、知的財産権:

英国においてのみ、名誉革命において知的財産権が確立されるとともに、海外貿易における国家独占が弱まり、金融制度が改善され、社会の幅広い層にビジネスチャンスが広がっていきました。


5.なぜ日本で産業革命が起こらなかったのか:

微積分を発明したのは、ドイツのライプニッツと英国のニュートンと言われていますが、ライプニッツの発明以前に、和算家の関孝和が行列式による連立方程式の解き方を発明していました。識字率は日本は男女を問わず7−8割ありました(英国は男性は6−7割か、女性はかなり低い)。

金融においても先物取引所などが世界に先駆けて開発運営されました。

戦国時代に火縄銃の大量生産に成功し、生産量と品質で英国やスペインを凌駕するまでになりました。当時の技術開発力は相当なものであったと思われます。


このように、産業革命を起こし得る知的潜在力は日本にもあったと考えられますが、徳川幕府は数学など基礎研究は許すが、工学への応用は軍事力強化につながり戦国時代へ逆戻りになるという危惧から、抑制したと考えられます。そして日本は、鎖国政策により海外との交易を禁止し、産業革命への道をたどらずに、国内だけの物質収支で成り立つ循環型の持続可能な社会を形成していくことになりました。


6.因みに江戸時代の日本は、外国からは何も輸入せず、すべてを国内のエネルギーや資源でまかなっていました。この時代には、日本の総人口はほぼ3,000万人ぐらいで(英国600万人)、ほとんど変動がなかったといわれます。江戸の人口は、約100-125万人と推定されており、当時、世界最大の都市でした(2位ロンドン、3位パリ)。江戸時代の日本は、地域での活動を中心とした循環型の社会であり、衣食住のあらゆる分野でリサイクル・リユースが行われていました。

例えば、し尿は肥料として有効活用され、大量のし尿を農村部へ運び、これを肥料として有効活用していました。その結果、江戸は、世界に類をみない衛生的な都市であったとされます。

近世ヨーロッパの都市では、し尿の処理に有効な手段がとれず、ペストやコレラといった伝染病が猛威をふるいましたが(人口三分の一減少)、このような伝染病の発生は、日本では病原体の媒介となり得るし尿等が放置されずに有効活用されていたために、比較的少なかったようです。

                    やまとこたろう



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