3. 混沌とする中国大陸:踏みにじられた日本の正当な権益
当時の中国大陸は、決して統一された近代国家ではありませんでした。清朝滅亡後の軍閥割拠により、各地で略奪や内乱が多発し、法も秩序もない無法地帯に近い状態でした。その中で、日本が日露戦争で、戦死者約10万人、戦費20億円(当時の国家予算4億円)という莫大な犠牲と引き換えに、条約で得た正当な権益が、軍閥などにより脅かされていたのです。
張学良による挑発と不当な妨害
満州を支配していた軍閥・張学良は、国際条約を無視し、南満州鉄道(満鉄)に並行する鉄道を建設して経営を圧迫しました。これは、当時の国際的な常識や条約に著しく違反する挑発行為でした。さらに、日本居留民に対する不当な課税や排斥、土地の取り上げなどが日常的に行われていました。
暴発寸前の国民感情とコミンテルンの影
事変直前の1931年、状況は決定的な局面を迎えます。
万宝山事件と中村大尉殺害事件: 入植した朝鮮系日本人農民が中国側に襲撃された万宝山事件や、調査中の日本軍将校(中村大尉)が惨殺された事件などが相次ぎました。
コミンテルンの扇動: これらの排日事件の背後には、中国国民党だけでなく、ソ連のコミンテルンが中国共産党を通じて扇動していたという指摘もあります。彼らにとって、日中が対立することはアジアでの影響力拡大に好都合だったのです。
外交交渉(幣原外交)による解決を目指した日本政府の慎重な姿勢は、国民から「軟弱外交」と非難され、日本国内では「もう我慢の限界だ、権利を守れ」という世論が爆発寸前まで高まっていました。関東軍の行動は、この「止むに止まれぬ国民の叫び」を背景にしたものだったのです。
4. 「五族協和」の理想と王道楽土:軍閥の搾取から解放された満州の民衆
満州事変はしばしば「現地の民衆を苦しめた一方的な侵略」と誤解されますが、事実は異なります。当時の満州の民衆にとって、最大級の苦しみは日本軍ではなく、軍閥による過酷な圧政と搾取でした。
軍閥政治からの「救済」
張学良軍は、民衆が汗水垂らして得た利益の7〜8割を軍費として徴収していました。関東軍による軍閥の追放は、現地の人々にとって「過酷な圧政からの解放」という、文字通りの救済としての側面を持っていたのです。
驚異的な経済発展と近代化の促進
1932年に建国された満州国に対し、日本は莫大な資本と世界最先端の技術を投入しました。その成果は、当時のアジアにおいて驚異的なものでした。
最先端都市の建設: 首都・新京(現在の長春)は、パリをモデルにした美しい碁盤の目の道路、水洗トイレ付きの近代的なアパート、広大な公園が整備され、当時の東京さえ凌駕する近代都市となりました。
インフラの整備: 鉄道網は、事変前の約3,000kmから建国後わずか10年で1万km以上に急増しました。これは、現在の日本のJR網の約半分に匹敵する規模です。また、ダム建設による電力供給、教育機関や病院の整備も飛躍的に進みました。
「理想」への渇望:五族協和
石原莞爾が掲げた**「五族協和(日本人・漢人・満州人・蒙古人・朝鮮人が協力する)」と「王道楽土」**という理想は、決して単なるプロパティ(宣伝)ではありませんでした。彼は、欧米の武力による支配(覇道)に対し、アジア独自の道徳による統治(王道)によって、人種差別のない理想的な国家を築こうと本気で考えていたのです。
その証拠に、満州国建国後、地獄のような軍閥争いや飢饉が続く中国本土から、治安が良く、仕事がある満州国へ移住する中国人が100万人単位で押し寄せ、人口は建国時の約3,000万人から、わずか10年で約5,000万人へと急増しました。もし満州国が、教科書が言うような搾取と虐殺の地であったなら、これほど多くの人々が、自ら進んでそこへ移住してくるはずがありません。この「人口移動」の事実は、満州国が多くの民衆にとって「希望の地」であったことの何よりの証明です。
やまとこたろう
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