②民族自決の原則とその実態
次に、パリ講和会議で提唱された民族自決の原則がどのように適用されたのかを見ていきましょう。
・ヨーロッパにおける民族自決:
旧ロシア領や旧オーストリア領には、フィンランド、チェコ、ポーランドなど多くの独立国家が誕生しました。これらは建前上は民族自決の原則に基づくものでしたが、そこにはイギリスやフランスの戦略的な意図が隠されていました。
一つは、ドイツの隣に小国連合を配置することで、ドイツの将来的な復活を抑え込む「防波堤」としての役割です。もう一つは、東方のソ連から社会主義思想が西欧に流入するのを防ぐ「緩衝地帯」としての役割でした。第二次世界大戦後の日本と、その周辺に形成された国際情勢と状況が酷似していると言えるかもしれません。
・アジア・アフリカにおける民族自決の限界:
一方で、アジアやアフリカの植民地においては、民族自決の原則はほとんど適用されませんでした。これらの地域の多くはイギリスやフランスの植民地であり、もし民族自決を認めてしまえば、両国の経済的利益が失われるからです。
結局のところ、ヴェルサイユ体制下における民族自決は、戦勝国であるイギリスやフランスにとって都合の良い地域にのみ限定的に認められたものだったと言えるでしょう。
③国際連盟:形骸化した平和維持機構
アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンの提唱によって設立が決定された国際連盟は、世界の平和と安全を維持するための画期的な試みでした。しかし、その実態は期待とはかけ離れたものでした。
・主要国の不在と日本の人種差別撤廃提案:
まず、国際連盟の設立を提唱したアメリカ自身が、国内世論の反対により連盟に参加しませんでした。さらに、日本やドイツも当初は加盟していましたが、後に脱退することになります。
このような主要大国の不在に加え、連盟の決定機関である総会の原則が全会一致であったため、加盟国間で対立が生じた際には、何も決定できない状況に陥ることがしばしばありました。
ここで注目すべきは、日本が国際連盟で提出した人種差別撤廃提案です。これは、当時世界で蔓延していた人種差別を撤廃しようという画期的な提案であり、多くの国の賛同を得て賛成多数となりました。しかし、イギリスの強い反対により、最終的にこの提案は否決されてしまいました。このことは、国際連盟が必ずしも公正な場ではなかったことを示唆しています。
・無力な制裁措置と第二次世界大戦:
国際連盟は、武力制裁を行わない方針であり、経済制裁もアメリカが不参加であったため、その効力は極めて低いものでした。
このように、アメリカやソ連といった大国の不在、何も決められない決定機関、そしてほとんど意味のない制裁措置という「三拍子」が揃っていたため、国際連盟はその存在価値をほとんど発揮できませんでした。その結果、第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできませんでした。
次回は、今回のテーマからは少し外れますが、日本が世界で初めて行った人種差別撤廃提案について詳しく掘り下げていきたいと思います。この提案は、日本の国際社会における平和と平等を求める姿勢を示す重要な歴史的事実です。
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