前回から続きます。神の命に従いヨシュアはエリコを攻め取りました。
④神の命に従うヨシュアは連戦連勝と思っていましたが、なぜかアリで負けました。
「アカンという男が神の約束を破って戦利品を隠し持っていたから、アカンと家族を石で打ち殺され火で焼かれた。」と。
ヨシュアは、次は戦利品は誰にも取らせませんと神に申し上げたところ、主はヨシュアに言われた、
「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさ人を皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたの物とすることができる。」と言われました。
「イスラエルびとは、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、剣をもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、剣をもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。」
「ただし、その町の家畜と、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである。」
そのとき、神は戦いの先頭に立ち、
「主は天から彼ら(アイの住民)の上に大石を降らし、多くの人々が死んだ。イスラエルの人々が剣をもって殺した数よりも、雹ヒョウに打たれて死んだもののほうが多かった。神はイスラエルのために戦われた。」
⑤ヨシュアは更に侵攻し、全地を得ます。
「その日ヨシュアはマツケダを取り、剣をもって、それと、王を撃ち、その中のすべての人を、ことごとく滅ぼして、ひとりも残さず、エリコの王にしたように、マツケダの王にもした。ヨシュアは更に、エグロンを滅ぼした。」
「こうしてヨシュアは、その地の全部、すなわち、山地、ネゲブ、平地、および山腹の地と、そのすべての王たちを撃ち滅ぼして、ひとりも残さず、すべての息あるものはことごとく滅ぼした。イスラエルの神、主が命じたとおりであった。」
「ヨシュアはカデシ・バルネアからガザまでの国々、およびゴセンの全地を撃ち滅ぼして、ギベオンにまで及んだ。イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った。」
⑥この時、ヒビの住民以外にイスラエルと和を講じた町は一つもなかったが、それは神がそうさせたからであるとヨシュア記に書かれています。
「彼ら(アラブ人)が心をかたくなにして、イスラエルに攻めよせたのは、もともと主がそうさせたので、彼らがのろわれた者となり、あわれみを受けず、ことごとく滅ぼされるためであった。」
⑦「神は愛なり」という聖書の有名な言葉があり、万人を一人も残さず愛し救ってくださる神の無償の愛と、これまで思ってきましたが、どうもそうでもないようです。人間の愛憎と同じような「愛憎裏返しの愛」のように思われますが?
神を憎む者への報復が、『旧約聖書』申命記32章41に記されています。
「わたしは敵にあだを返し、わたしを憎むものに報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせるであろう。殺された者と捕らえられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう。」
⑧ここまで書いてくると、さすがに重い気分になりました。現在のハマステロ事件と重なるところも多く、とても消化できそうにもありません。人類の原罪でしょうか?人類が背負った業でしょうか?憎しみの連鎖が果てしなく続く、地獄的惨状が懸念されます。
神よ、我らの憎しみの連鎖を断ち切り給え!
ゴルゴダの丘で十字架にかけられ、罪人に槍で突き刺されようとするイエスが、「神よ彼らを許し給え!彼らは何をしているのか知らないのです!」と言われ、そして最後に、
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!(神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや)と言って息を引き取られました。
神よ、我らの憎しみの連鎖を断ち切り給え!
やまとこたろう
ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。
↓ ↓
ユダヤ人以外も救われるとしたのが、キリスト教だと理解しています。新約聖書では、この記事に書かれたような態度はどう変わったのか、結局変わっていないのか。そんなことが気になりました。
返信削除コメントありがとうございます。そうですね、キリスト教徒以外は救われません。ユダヤ教は異教徒への布教は積極的ではありませんが、キリスト教は布教に超積極的であるため、異教徒に対し侵略的攻撃的となったようです。やまとこたろう
返信削除ご返信ありがとうございます。キリスト教徒は元々侵略的攻撃的だったのか、どこかに転換点があったのか。キリスト教はあくまで侵略の道具であったようにも思えます。宗教以前にその地域それぞれの特性により受け入れられやすい宗教があるのではないかと思いました。感想です。
返信削除