スキップしてメイン コンテンツに移動

12-3 戦いについて、一神教に次いで、ブッダの故事と言葉を上げてみます

 

①シャカ国が、隣国と水源地を争って戦争が起きようとしていました。このことを知ったブッダは、急いでシャカ国に帰り、今や戦闘を始めようとしている両軍の真ん中に立ちました。ブッダの姿を見て、両軍は動揺しました。

ブッダは、「何故ここに集まったのか」と両軍の首領に質問しました。

首領は、それぞれ「戦うために集まった」と答えました。 

で、ブッダは、「何事で戦うのか」となおもたずねました。

すると首領は、「農耕の水を確保するために」と答えました。


そこでブッダはさらにたずねます。「人の生命と比べて農耕の水はどれほどの値打ちがあるというのか。何故に農耕の水のために、この上ない価値を持つ人間の生命を奪おうとするのか。」


さらにブッダは、「人間はつまらぬ誤解のために争いを起こし互いに傷つけ殺し合うものであるから、正しく理解し合わねばならない。つまらぬ誤解がもとで万人が付和雷同して悲惨な最後を招くものであるから、注意しなければならない。」と説きました。


「かくして両国の人々は心から喜んで戦いをやめることができた。」と伝えられています。



シャカ国が、大国マガダに攻め滅ぼされようとしていました。シャカ国の人たちはブッダに窮状を訴え、救国のために弓矢を取って戦うように哀願しました。かつて騎馬戦の勇者であったブッダは、ブッダに従って出家した多くのシャカ国の若者を率い、自ら弓矢を取り騎馬でマガダ国を攻め滅ぼすことをせず、こう言いました。 


「恨みを抱く人たちの中で恨むことなく、安らかに生きよう。恨みを抱く人たちの中で、恨むことなく暮らしていこう」。         


「勝利からは恨みが起る。敗れた人は苦しんで終わる。勝敗を捨てて、安らぎを大切にした人は、安らかに終わる」。           


ブッダは、予言されていた全インドを徳によって統一する転輪聖王の道を選ばず、生老病死に苦しむあらゆる人々を救う覚者の道を選ばれたのです。 



③教団の分裂を企てた弟子がいました。その弟子は凶暴な象にブッダを踏み潰させようとしましたが、ブッダが象に優しく呼びかけると、象はブッダの前におとなしくひざまずきブッダに従いました。更にその弟子は、山の上から大岩を落とし、ブッダの足の指から出血させました。


しかし、ブッダはその弟子を許しました。弟子たちは「何故許されるのか」とたずねました。ブッダは「彼は前世で私の師匠でした。その師匠の指導のお陰で、私は今生で悟ることができたのです」と答え、彼に合掌しました。



④仏の言葉として遺されている『法句経』からです。

「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」

相手を殺そうとあなたは思っているかもしれないけれども、相手もあなたと同じように殺されたくないと思っているんですよ。だから、その殺されたくないという思いを自分の身に引き比べて、相手を殺してもならないし、他の人にも殺させてもいけない。



⑤また、ブッダは、争ったり怨んだり悩んだり苦しんだりする人々に、

「勝利は怨みを生み、敗れては苦しく眠る。ただ勝敗を捨て去ってこそ、静けく楽しくも眠るであろう。逆に、他を殺せばおのれを殺すものを得、他を悩ませばおのれを悩ますものを得、かくて業の車は転がり転がって彼は掠めてはまた掠めとられる。」


「怨みによって怨みは止まず、ただ慈愛によってのみ止む。」


と『法句経』でこう説かれています。




                  やまとこたろう


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

  1. 仏教の教えは世界を平和に導くことができる可能性を持っていると思いました。ふと浮かんだのはモンゴルのことです。モンゴルの主要な宗教は仏教かと思います。古から彼らは仏教を信仰していたのか。だとしたら、略奪を調達の手段としていた彼らは仏教の教えをどのように捉えていたのだろうか。そんな疑問が湧きました。

    返信削除
  2. コメントありがとうございます。仏教は発祥の地インドでイスラムによって消滅させられましたが、東に伝わり日本にも伝わり、最近では欧米に浸透し始めています。日本人僧侶の活動もあり、先祖返りしてインドで最下層のカーストを中心に仏教徒が1億人にまで増えてきているという情報もあります。モンゴルはアニミズム信仰の所にチベット仏教が浸透し、モンゴル帝国は寛容な宗教政策を取り首都にはキリスト教イスラム教仏教外の寺院が有り信仰の自由がありました。戦争・統治等において多人種多民族を積極的に起用し、自由貿易経済を確保維持し、世界最大の帝国を構築することができました。帝国崩壊の最大の原因は、均等相続と最高位相続のルールが確立していなかったことと均等相続の伝統ためと考えられます。一方、チベット仏教は、北部アジア・中央アジア・シナ等に広く伝わり、モンゴル帝国とはウインウインの関係となったようです。その後、非武装であったため中共に簡単に侵略され、中華民族同化に激流呑み込まれてしまいました。ダライ・ラマ法皇はインド北部に亡命しましたが、釈迦族と同じようにチベット民族も消滅していくのでしょうか?

    返信削除
  3. 元々モンゴル帝国では、仏教は受け入れられている宗教の一つであり、現代のチベット仏教がメインのモンゴルとは違っていたのですね。モンゴル帝国は、宗教よりも、遊牧民であることが先であり、遊牧民であるからには常に移動し、移動先で不足するものを調達するには、略奪することが自然な考え方だったのでしょう。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

第一次世界大戦前夜:帝国主義の衝突 41-1/2 

  第一次世界大戦を簡潔に表現するならば、 それは 白人列強による植民地争奪戦の最終局面 と言えるでしょう。 この戦争に至るまでの国際情勢を詳しく見ていきましょう。 ①産業革命と植民地拡大の競争 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は産業革命を背景に、地球規模での植民地獲得競争を繰り広げていました。イギリスやフランスは、早期に産業革命を達成し、広大な植民地帝国を築き上げていました。一方、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアといった後発の国々は、植民地獲得に出遅れていました。 しかし、この時期にドイツは急速な工業化を遂げ、「世界の工場」と呼ばれるほどの経済力をつけるに至ります。経済力の増大は、当然ながら国際社会における影響力の拡大を求める声へとつながり、ドイツはより多くの植民地、ひいては勢力圏を求めるようになりました。 ②アフリカ分割と列強同士の争い 列強が海外に目を向けた頃には、日本と中国を除いて、東アジアにおける植民地支配はほぼ完了していました。そこで、ヨーロッパ各国が次なる目標としたのがアフリカ大陸です。アフリカ分割競争は激化し、わずかな期間で大陸のほとんどが列強によって支配されてしまいました。 そして、アフリカ大陸にも「取り尽くす場所」がなくなると、今度は白人国家同士の醜い争いが表面化し始めます。これが、第一次世界大戦へとつながる直接的な引き金の一つとなります。 ③三B政策と三国同盟・三国協商の形成 第一次世界大戦勃発の大きな要因となったのは、ドイツの推進した**3B政策(ベルリン、ビザンチウム、バグダッドを結ぶ鉄道建設構想)**です。この政策は、ドイツがオーストリア=ハンガリー帝国を経由して中東まで鉄道網を延伸しようとするものでした。 このドイツの動きに対し、ロシアは南下政策の妨げとなると危機感を抱きました。また、イギリスはスエズ運河の権益が脅かされること、さらに鉄道がインドに到達することでその支配が危うくなる可能性を懸念し、看過できませんでした。 こうして、利害が一致したイギリス、フランス、ロシアは 三国協商 を結び、ドイツに対抗する姿勢を明確にしました。これに対しドイツは、同じく植民地獲得に出遅れていたオーストリア=ハンガリー帝国、イタリアと 三国同盟 を結び、勢力均衡を図りました。 ④サラエボ事件と大戦勃発 オスマン帝...

37.日韓併合 〜その実情

  今回は、日露戦争のわずか6年後の1910年に行われた 日韓併合 について見ていきたいと思います。 ①日韓併合の背景:大韓帝国の実情と日本の安全保障 日韓併合は、日本が武力で一方的に制圧・占領したものではなく、当時存在した 李氏朝鮮の最後の姿である大韓帝国が、日本の統治下に入ることを選択し、「韓国併合に関する条約」によって実現したもの です。 日韓併合の対象となった大韓帝国は、現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国です。元々「朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」という国名でしたが、この王朝は1392年から約500年間朝鮮半島を支配していました。高麗の臣下であった李氏が明の力を借りて建国した経緯から、 明、そしてその後の清の属国として長い歴史 を歩みました。 李氏朝鮮時代の約500年間は、両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が権力を握り、多くの国民が貧困と搾取に苦しんでいたとされています。人口も減少傾向にあり、文化的な停滞も見られました。これについて歴史家の崔基鎬(チェ・ギホ)氏は、「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である」と述べています。日韓併合前の朝鮮半島は、このように国民の窮乏と文化的な停滞が長く続いた歴史を持っていました。 1895年の 日清戦争 で勝利した日本は、その後の日露戦争を経て、清の支配から李氏朝鮮を独立させました。これにより、朝鮮半島は500年ぶりに独立し、 大韓帝国が成立 したのです。 ②ロシアの南下政策と日本の危機感 話は前後しますが、当時の日本にとって最大の脅威は ロシアの南下政策 でした。ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下すれば、北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と、九州の北に位置する朝鮮半島によって日本は挟撃される形となり、日本の安全保障は一層深刻なものになります。そのため、 朝鮮半島は日本にとって、何としても死守しなければならない生命線 でした。 しかし、国力が衰退していた李氏朝鮮には、自力でロシアの脅威から朝鮮半島を守る力はほとんどありませんでした。そこで日本は、朝鮮半島の近代化を支援し、ロシアの進出を阻もうとしましたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然これを許そうとしませんでした。 ③日清・日露戦争と日本の影響力確...

誤解を解く!日本と第一次世界大戦、21カ条の要求の真実 44

「自虐史観」の 歴史教育を受けてきた私たちは、「日本は日英同盟を口実に 火事場泥棒のように第一次世界大戦に参戦し、アジアでの利権を拡大した」と考えているかもしれません。しかし、本当にそうだったのでしょうか?今回は、第一次世界大戦における日本の関わり、特に「21カ条の要求」の真実に迫り、私たちが抱く誤解を解いていきたいと思います。 イギリスの要請に応じた日本の参戦 第一次世界大戦が始まると、イギリスは同盟国である日本に対し、ドイツ東洋艦隊の撃破を要請してきました。しかし、日本を警戒していたアメリカの反対によって、この要請は二度も取り下げられてしまいます。最終的に、アメリカが参戦地域を限定するという条件で日本の参戦を許可し、日本はイギリスの要請通り、ドイツ東洋艦隊を撃破しました。 さらに、日本は艦隊を遠く地中海にまで派遣し、イギリスやフランスの輸送船団をドイツのUボートの脅威から守るという重要な役割を果たしました。この貢献に対し、イギリス海軍は日本海軍に「ありがとう」と刻まれた感謝状を送ったほどです。 この日本の貢献に対する礼として、イギリスやフランスはドイツが持っていた中国の山東半島や太平洋の島々の権益を日本が引き継ぐことを認めました。これは、日本が「火事場泥棒」のように勝手に奪ったわけではなく、連合国の一員として正当な報酬として得たものだったのです。 21カ条の要求は「理不尽な要求」だったのか? 多くの人が、「21カ条の要求」は日本が中国に対して行った、一方的で理不尽な要求だと考えています。しかし、事実は少し違います。 袁世凱の「お願い」だった? そもそも「21カ条の要求」は、日本が日清・日露戦争で得た満州の権益を、中国での反日運動やアメリカ・イギリスの横槍から守るためのものでした。つまり、日本は「決まったことはきちんと守ってほしい」と主張していただけで、新しい要求をしていたわけではありません。 さらに興味深いのは、この要求の内容の一部は、袁世凱の前政権を率いていた孫文の時代からすでに協議されていたことです。そして、袁世凱自身が「内容はこのままでいいが、日本からの要求という形にしてほしい。そうしないと私のメンツが潰れる」と、日本の外務大臣であった加藤高明に頼み、公に「日本からの要求」という形になったと言われています。 つまり、「21カ条の要求」は、日本が一方的に突き...