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第一次世界大戦後の国際秩序と日本の苦悩 47

第一次世界大戦が終結した1920年代、世界は新たな国際秩序を模索していました。   戦争で疲弊した欧州諸国は、軍縮と平和外交へと舵を切ります。しかし、この「平和」の裏側では、新たな国際的対立の火種がくすぶっていました。特に日本は、人種差別、共産主義の拡大、そして経済的な閉塞という三重苦に直面することになります。 まず、米国による排日移民法の成立です。1924年に制定された 絶対的排日移民法 は、日本人移民を事実上締め出すという、極めて差別的な法律でした。これは、日本人のみならず、すべての東アジア系移民を対象としたもので、米国社会に深く根ざした白人優位の人種差別思想の表れでした。この法律は、米国での土地所有や市民権獲得を望んでいた多くの日本人にとって、大きな希望を打ち砕くものでした。この人種差別的な扱いは、それまで米国を理想としてきた多くの日本人の間で反米感情を急速に高めることになりました。 🇨🇳中国大陸における共産主義の脅威 次に、日本にとって喫緊の課題となったのが、中国大陸における共産主義勢力の拡大でした。ロシア革命を経て誕生したソビエト連邦は、世界的な軍縮の流れに逆行して軍備を増強し、共産主義思想を周辺国に広める活動を活発化させました。 当時の中国は、辛亥革命後の混乱期にあり、各地で軍閥が割拠する内戦状態にありました。ソ連は、この混乱に乗じて孫文率いる中国国民党に武器や資金を援助し、中国大陸の統一を支援します。孫文の死後、蒋介石が国民党の指導者となりますが、国民党内部では共産党との対立が深まっていきました。1927年、蒋介石は上海でクーデターを起こし、共産党の排除を宣言します。これによって、中国大陸では国民党と共産党による内戦が本格化し、共産党は 南京事件 をはじめとする反日テロを繰り返し、日本を標的とした宣伝工作を積極的に行っていくことになります。 経済危機と外交の選択 このような厳しい国際情勢の中、日本は幣原喜重郎外務大臣のもと、国際協調を掲げる「幣原外交」を推進しました。これは、対米協調を軸に、中国の内政には不干渉の姿勢をとるというものでした。しかし、中国大陸で反日感情が高まり、日本人が迫害される事件が多発する中、幣原外交は毅然とした対応をとることができず、結果として中国における日本の権益や日本人居留民の安全が脅かされる事態を招くことになります...