第一次世界大戦が終結した1920年代、世界は新たな国際秩序を模索していました。 戦争で疲弊した欧州諸国は、軍縮と平和外交へと舵を切ります。しかし、この「平和」の裏側では、新たな国際的対立の火種がくすぶっていました。特に日本は、人種差別、共産主義の拡大、そして経済的な閉塞という三重苦に直面することになります。
まず、米国による排日移民法の成立です。1924年に制定された絶対的排日移民法は、日本人移民を事実上締め出すという、極めて差別的な法律でした。これは、日本人のみならず、すべての東アジア系移民を対象としたもので、米国社会に深く根ざした白人優位の人種差別思想の表れでした。この法律は、米国での土地所有や市民権獲得を望んでいた多くの日本人にとって、大きな希望を打ち砕くものでした。この人種差別的な扱いは、それまで米国を理想としてきた多くの日本人の間で反米感情を急速に高めることになりました。
🇨🇳中国大陸における共産主義の脅威
次に、日本にとって喫緊の課題となったのが、中国大陸における共産主義勢力の拡大でした。ロシア革命を経て誕生したソビエト連邦は、世界的な軍縮の流れに逆行して軍備を増強し、共産主義思想を周辺国に広める活動を活発化させました。
当時の中国は、辛亥革命後の混乱期にあり、各地で軍閥が割拠する内戦状態にありました。ソ連は、この混乱に乗じて孫文率いる中国国民党に武器や資金を援助し、中国大陸の統一を支援します。孫文の死後、蒋介石が国民党の指導者となりますが、国民党内部では共産党との対立が深まっていきました。1927年、蒋介石は上海でクーデターを起こし、共産党の排除を宣言します。これによって、中国大陸では国民党と共産党による内戦が本格化し、共産党は南京事件をはじめとする反日テロを繰り返し、日本を標的とした宣伝工作を積極的に行っていくことになります。
経済危機と外交の選択
このような厳しい国際情勢の中、日本は幣原喜重郎外務大臣のもと、国際協調を掲げる「幣原外交」を推進しました。これは、対米協調を軸に、中国の内政には不干渉の姿勢をとるというものでした。しかし、中国大陸で反日感情が高まり、日本人が迫害される事件が多発する中、幣原外交は毅然とした対応をとることができず、結果として中国における日本の権益や日本人居留民の安全が脅かされる事態を招くことになります。
この外交姿勢は、国際社会からは「平和的」と評価されましたが、国内では弱腰外交と批判され、中国国内の反日感情をさらに助長する結果となりました。
さらに1929年、世界恐慌が発生すると、欧米列強は自国の経済を守るためにブロック経済を形成し、植民地としか貿易を行わない排他的な経済圏を築きました。資源に乏しく、植民地も少なかった日本は、このブロック経済から締め出され、経済的に孤立していきます。この状況下で、日本にとって唯一の経済的生命線となりつつあったのが、豊富な資源と権益を持つ満州でした。
満州は、ロシアとの日露戦争で多大な犠牲を払って獲得した日本の権益でした。しかし、中国共産党による反日宣伝工作や、日本の満州進出を警戒する米国の動きもあり、この重要な権益が脅かされることになります。このような一連の流れが、後の満州事変へとつながっていくのです。
これらの歴史的事実を丹念に見ていくと、満州事変を単なる「日本の一方的な侵略」として断じることは、当時の複雑な国際情勢や日本の置かれた状況を無視した見方であるということがお分かりいただけるでしょう。歴史の解釈には多角的な視点が必要であり、光が当たらない側面にも目を向けることで、より深い理解に繋がるはずです。
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