スキップしてメイン コンテンツに移動

第一次世界大戦後の国際秩序と日本の苦悩 49

第一次世界大戦は、人類史上かつてない規模の戦争でした。

この未曽有の惨禍を経験した欧州諸国では、再びこのような悲劇を繰り返してはならないという思いが国民の間で強まります。その結果、国際協調と平和を求める機運が高まり、軍縮の動きが活発になります。しかし、この「平和」の裏側では、新たな国際秩序の中で日本が様々な困難に直面することになります。


国際協調の影で強まる人種差別

戦後、国際協調の動きが広がる一方で、日本を敵視する人種差別的な動きが強まります。特に米国では、1924年に絶対的排日移民法が成立しました。これは、日本人移民の入国を全面的に禁止する、極めて差別的な法律です。この法律により、日本人は米国で土地を借りることすらできなくなり、帰化も全面的に禁止されました。 これまで友好国と信じていた米国からの露骨な差別は、多くの日本人の反米感情を高める大きな要因となりました。


共産主義の脅威と中国の動乱

この時期、世界はもう一つの大きな脅威に直面していました。それは、1922年に誕生したソビエト連邦が推し進める共産主義の拡大です。ソ連は、国際的な軍縮の流れに逆行して軍事力を増強し、共産主義革命を輸出しようと周辺国への介入を繰り返しました。

特に中国は、辛亥革命後の内乱で政治的に不安定な状況にあり、ソ連の格好の標的となりました。ソ連は孫文率いる国民党に武器や資金を援助し、中国統一を支援する一方で、中国共産党への影響力を強めていきました。

孫文の死後、蒋介石が国民党を率いて北伐を進める中で、中国共産党が武漢に政府を樹立し、独自の共産主義政策を推し進め始めます。この動きに危機感を抱いた蒋介石は、1927年に上海クーデターを起こし、共産党員の排除を宣言します。これ以降、中国は国民党と共産党の内戦状態に突入し、日本や欧米列強は共産主義の拡大を阻止するため、国民党の南京政府を支持することになります。

しかし、この混乱に乗じて中国共産党は、南京事件(1927年)のような日本人に対するテロ事件を引き起こし、反日感情を煽るようになりました。


日本の「協調外交」と弱腰外交の代償

このような厳しい国際情勢の中、当時の日本政府は、幣原喜重郎外務大臣の主導で「協調外交」を進めました。これは、国際協調を重視し、欧米諸国との摩擦を避けるための外交方針です。しかし、この政策は、中国で発生した日本人に対するテロや暴動に対して、毅然とした対応を取らないという「弱腰外交」と見なされる側面がありました。

日本政府が自国民の保護に消極的な姿勢を見せる一方で、欧米列強は自国民の安全確保のために軍事力を行使することも厭いませんでした。この差が、中国民衆に「白人には手出しできないが、日本人には何をしても許される」という認識を生み、反日運動の標的を日本に集中させる結果を招いてしまいました。


世界恐慌と満州問題

1929年に発生した世界恐慌は、国際社会をさらに不安定なものにしました。欧米列強は、自国とその植民地・支配地域のみで貿易を行うブロック経済を形成し、日本のような植民地や資源の少ない国は、経済的に追い詰められていきました。

日本にとって、中国大陸にある満州は、経済的な生命線とも言える重要な地域でした。しかし、この満州でも共産党による反日宣伝工作が激化し、日本の権益が脅かされるようになります。

こうした歴史の背景を考慮すると、その後の満州事変(1931年)が、単なる「日本の無謀な侵略」という一面的な見方だけでは捉えきれない、複雑な国際情勢の中で引き起こされた事件であったことが理解できます。



                          やまとこたろう


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

第一次世界大戦前夜:帝国主義の衝突 41-1/2 

  第一次世界大戦を簡潔に表現するならば、 それは 白人列強による植民地争奪戦の最終局面 と言えるでしょう。 この戦争に至るまでの国際情勢を詳しく見ていきましょう。 ①産業革命と植民地拡大の競争 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は産業革命を背景に、地球規模での植民地獲得競争を繰り広げていました。イギリスやフランスは、早期に産業革命を達成し、広大な植民地帝国を築き上げていました。一方、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアといった後発の国々は、植民地獲得に出遅れていました。 しかし、この時期にドイツは急速な工業化を遂げ、「世界の工場」と呼ばれるほどの経済力をつけるに至ります。経済力の増大は、当然ながら国際社会における影響力の拡大を求める声へとつながり、ドイツはより多くの植民地、ひいては勢力圏を求めるようになりました。 ②アフリカ分割と列強同士の争い 列強が海外に目を向けた頃には、日本と中国を除いて、東アジアにおける植民地支配はほぼ完了していました。そこで、ヨーロッパ各国が次なる目標としたのがアフリカ大陸です。アフリカ分割競争は激化し、わずかな期間で大陸のほとんどが列強によって支配されてしまいました。 そして、アフリカ大陸にも「取り尽くす場所」がなくなると、今度は白人国家同士の醜い争いが表面化し始めます。これが、第一次世界大戦へとつながる直接的な引き金の一つとなります。 ③三B政策と三国同盟・三国協商の形成 第一次世界大戦勃発の大きな要因となったのは、ドイツの推進した**3B政策(ベルリン、ビザンチウム、バグダッドを結ぶ鉄道建設構想)**です。この政策は、ドイツがオーストリア=ハンガリー帝国を経由して中東まで鉄道網を延伸しようとするものでした。 このドイツの動きに対し、ロシアは南下政策の妨げとなると危機感を抱きました。また、イギリスはスエズ運河の権益が脅かされること、さらに鉄道がインドに到達することでその支配が危うくなる可能性を懸念し、看過できませんでした。 こうして、利害が一致したイギリス、フランス、ロシアは 三国協商 を結び、ドイツに対抗する姿勢を明確にしました。これに対しドイツは、同じく植民地獲得に出遅れていたオーストリア=ハンガリー帝国、イタリアと 三国同盟 を結び、勢力均衡を図りました。 ④サラエボ事件と大戦勃発 オスマン帝...

37.日韓併合 〜その実情

  今回は、日露戦争のわずか6年後の1910年に行われた 日韓併合 について見ていきたいと思います。 ①日韓併合の背景:大韓帝国の実情と日本の安全保障 日韓併合は、日本が武力で一方的に制圧・占領したものではなく、当時存在した 李氏朝鮮の最後の姿である大韓帝国が、日本の統治下に入ることを選択し、「韓国併合に関する条約」によって実現したもの です。 日韓併合の対象となった大韓帝国は、現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国です。元々「朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」という国名でしたが、この王朝は1392年から約500年間朝鮮半島を支配していました。高麗の臣下であった李氏が明の力を借りて建国した経緯から、 明、そしてその後の清の属国として長い歴史 を歩みました。 李氏朝鮮時代の約500年間は、両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が権力を握り、多くの国民が貧困と搾取に苦しんでいたとされています。人口も減少傾向にあり、文化的な停滞も見られました。これについて歴史家の崔基鎬(チェ・ギホ)氏は、「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である」と述べています。日韓併合前の朝鮮半島は、このように国民の窮乏と文化的な停滞が長く続いた歴史を持っていました。 1895年の 日清戦争 で勝利した日本は、その後の日露戦争を経て、清の支配から李氏朝鮮を独立させました。これにより、朝鮮半島は500年ぶりに独立し、 大韓帝国が成立 したのです。 ②ロシアの南下政策と日本の危機感 話は前後しますが、当時の日本にとって最大の脅威は ロシアの南下政策 でした。ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下すれば、北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と、九州の北に位置する朝鮮半島によって日本は挟撃される形となり、日本の安全保障は一層深刻なものになります。そのため、 朝鮮半島は日本にとって、何としても死守しなければならない生命線 でした。 しかし、国力が衰退していた李氏朝鮮には、自力でロシアの脅威から朝鮮半島を守る力はほとんどありませんでした。そこで日本は、朝鮮半島の近代化を支援し、ロシアの進出を阻もうとしましたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然これを許そうとしませんでした。 ③日清・日露戦争と日本の影響力確...

38.日韓併合期の朝鮮半島における近代化の進展と社会の変化

  日本は、1910年から1945年までの朝鮮統治期において、朝鮮半島を日本の一部と位置づけ、 日本内地に準じた政策 を推進しました。この統治期には、日本からの財政支援や技術導入により、インフラ整備や社会システムの近代化が進展しました。 これに伴い、 人口 は 1300万人が2600万人に倍増 し、平均 寿命 も24歳が56歳に倍増し、 識字率 も 4%が65%に 向上し、 身分解放 が進むなど、社会に大きな変化が見られました。 ① 財政支援 併合前、大韓帝国の財政は破綻状態でした。日本は無利子、無期限で多額の財政支援を行いました。1907年度の大韓帝国の歳入は748万円でしたが、必要な歳出は3400万円でした。日本は不足分2700万円全額を負担しました。 その後も、国家歳入の大部分を日本が負担することになりました。日本は1910年から1944年までの間に、未償還の公債に立替金などを合算すると、累計20億円以上を朝鮮に支出することになりました。1910年度の日本の国家予算5億5000万円と比較しても多額であり、日本にとっての朝鮮半島の重要性を示唆しています。 ② インフラ整備 併合後に置かれた朝鮮総督府は、土地調査に基づき、 鉄道(約5000km) 、ダム、上下水道、病院、学校、電話、郵便などの社会インフラを整備していきました。 例えば、日満国境(現在の中朝国境)に建設した 水豊 スイホウ ダム は、約60万kwの大出力で、現在でも北朝鮮の電力供給の一翼を担っています。 また、鉱山業や製鉄業などの産業近代化、農業の機械化による生産性向上、造林事業、灌漑用水事業なども推進されました。 ③ 学校教育制度の整備 教育制度の整備も進められ、 小学校の数 は1910年の約100校から1943年には約4300校へと 大幅に増加 しました。 ハングル文字教育 が推進される一方で、日本語 (西洋近代語彙を翻訳した当時アジア唯一の言語) 教育も同時に進められ、近代化に必要な人材育成が図られました。 1924年には日本で6番目の帝国大学となる 京城帝国大学 が設立され、多額の予算が投じられました。 ④ 身分解放 統治下では、数百年以上続いてきた奴婢や白丁といった賤民の身分制度が撤廃され、 身分差別に対する法的な是正が図られました。これにより、 旧賤民の子弟も学校に通うことが可能...