第一次世界大戦は、人類史上かつてない規模の戦争でした。
この未曽有の惨禍を経験した欧州諸国では、再びこのような悲劇を繰り返してはならないという思いが国民の間で強まります。その結果、国際協調と平和を求める機運が高まり、軍縮の動きが活発になります。しかし、この「平和」の裏側では、新たな国際秩序の中で日本が様々な困難に直面することになります。
国際協調の影で強まる人種差別
戦後、国際協調の動きが広がる一方で、日本を敵視する人種差別的な動きが強まります。特に米国では、1924年に絶対的排日移民法が成立しました。これは、日本人移民の入国を全面的に禁止する、極めて差別的な法律です。この法律により、日本人は米国で土地を借りることすらできなくなり、帰化も全面的に禁止されました。 これまで友好国と信じていた米国からの露骨な差別は、多くの日本人の反米感情を高める大きな要因となりました。
共産主義の脅威と中国の動乱
この時期、世界はもう一つの大きな脅威に直面していました。それは、1922年に誕生したソビエト連邦が推し進める共産主義の拡大です。ソ連は、国際的な軍縮の流れに逆行して軍事力を増強し、共産主義革命を輸出しようと周辺国への介入を繰り返しました。
特に中国は、辛亥革命後の内乱で政治的に不安定な状況にあり、ソ連の格好の標的となりました。ソ連は孫文率いる国民党に武器や資金を援助し、中国統一を支援する一方で、中国共産党への影響力を強めていきました。
孫文の死後、蒋介石が国民党を率いて北伐を進める中で、中国共産党が武漢に政府を樹立し、独自の共産主義政策を推し進め始めます。この動きに危機感を抱いた蒋介石は、1927年に上海クーデターを起こし、共産党員の排除を宣言します。これ以降、中国は国民党と共産党の内戦状態に突入し、日本や欧米列強は共産主義の拡大を阻止するため、国民党の南京政府を支持することになります。
しかし、この混乱に乗じて中国共産党は、南京事件(1927年)のような日本人に対するテロ事件を引き起こし、反日感情を煽るようになりました。
日本の「協調外交」と弱腰外交の代償
このような厳しい国際情勢の中、当時の日本政府は、幣原喜重郎外務大臣の主導で「協調外交」を進めました。これは、国際協調を重視し、欧米諸国との摩擦を避けるための外交方針です。しかし、この政策は、中国で発生した日本人に対するテロや暴動に対して、毅然とした対応を取らないという「弱腰外交」と見なされる側面がありました。
日本政府が自国民の保護に消極的な姿勢を見せる一方で、欧米列強は自国民の安全確保のために軍事力を行使することも厭いませんでした。この差が、中国民衆に「白人には手出しできないが、日本人には何をしても許される」という認識を生み、反日運動の標的を日本に集中させる結果を招いてしまいました。
世界恐慌と満州問題
1929年に発生した世界恐慌は、国際社会をさらに不安定なものにしました。欧米列強は、自国とその植民地・支配地域のみで貿易を行うブロック経済を形成し、日本のような植民地や資源の少ない国は、経済的に追い詰められていきました。
日本にとって、中国大陸にある満州は、経済的な生命線とも言える重要な地域でした。しかし、この満州でも共産党による反日宣伝工作が激化し、日本の権益が脅かされるようになります。
こうした歴史の背景を考慮すると、その後の満州事変(1931年)が、単なる「日本の無謀な侵略」という一面的な見方だけでは捉えきれない、複雑な国際情勢の中で引き起こされた事件であったことが理解できます。
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