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13-4-2-2. ブータン、タイ、ミャンマー、ベトナム、そして日本の仏教の概観

⑦ブータン総人口約80万:ヒマラヤ山脈中の小さな立憲君主制のチベット仏教の国です。所得ではなく幸福度を目安にした政治が行われ、人々は心豊かに幸せに暮らしているようです。中共と隣接しているため領土侵食圧力を受けており、今後が心配です。隣国ネパールは、すでに中共の影響力があります。ちなみに、ネパールでは大多数はヒンズー教徒ですが、多くの人は自らをヒンズー教徒兼仏教徒であると捉え、寺院や礼拝儀式を共有することが多いようです。


⑧タイ約7千万人:タイ王国には上座部仏教(自分の解脱を求める)が伝わりました。人口の90%以上が仏教徒です。インドシナの英仏領の干渉地帯として、独立を維持できた唯一の国です。男子は一生に一度出家修行が義務づけされています。在家者は、僧団が必要とする食物・薬・衣服の布施や寺院修復費用の寄進を積極的に行います。信者たちが毎日金箔を仏像に貼り付けるため、いつまでもピカピカです。


⑨ミャンマー(元英領)約4千万人:上座部仏教が伝わりました。国民の9割は仏教徒で13%が僧侶です。男子は一生に一度出家修行が義務づけされています。僧侶は「ブッダの子」として社会の尊敬を集めています。軍事政権に抗議するデモでは多数の僧侶が先頭に立っています。中共が軍事政権を支援しています。


⑩ベトナム(元仏領)には大乗仏教(自分を救い他者を救う)が伝わりました。ベトナム戦争時、戦火にあえぐ民衆を物心両面で支援するために僧たちが活動しました。北ベトナム共産軍と南ベトナム米軍の双方は、そのような僧たちの活動を弾圧し、抗議した僧が焼身自殺する事件が何度も起こりました。禅僧ティク・ナット・ハンは、フランスに亡命しコミュニティを作り現地で活動を続けています。


⑪日本約8千万人:中国を経て6世紀に大乗仏教が日本に伝えられました。聖徳太子から天武天皇までの間に、象徴天皇を中心としたしらす政治体制十七条憲法の「篤く三宝を敬うこと」を両輪とした国の基本が方向づけられました。外敵襲来、戦乱、災害、飢饉、疫病、敗戦など幾多の試練を、この両輪と国民の努力で乗り越え、現在もその命脈が細々ですが保たれています。


ブッダが自覚した内容が記された経典が、僧たちによって伝えられ、仏教が日本に広まりました。鎌倉時代には、中国から帰朝した際、経典を持ち帰らなかった道元禅師により、ブッダが自覚した事実が伝えられました。


江戸時代に飛びます。徳川家康は、広大な湿地帯を開拓するに際し、旗印の「厭離穢土エンリエド欣求浄土ゴングジョウド」(穢土を厭い浄土を求める)から発想し、「穢土エド(けがれの多い国土)を浄土にしよう!」と「江戸」と名付けました。そして、300年間戦争のない平和な時代が保たれ、安全で心豊かな日本文化が醸成され、衛生的でエコな循環型社会が構築されていくことになりました。


この間、縄文以来の日本文化と仏教が高次元で融合されながら、日本人の生活や文化に深く広がっていき、世界で類例を見ないユニークなものへと洗練されていきました。例えば、「いただきます」、「もったいない」、「お先にどうぞ」、少欲知足、思いやり、おもてなし、洗面、洗浄(washletの元祖)、清掃、小学校の掃除当番、清潔、挨拶、礼儀作法、日本庭園、日本間、押入れ、風呂敷、茶道、華道、書道、柔道、武道、武士道、能、猿楽、謡曲、歌謡曲、落語、漫才などなどです。


現在、東京圏は、世界最大の広域先進都市として成長し変化を続けています。日本はG7唯一のアジアの国としてその役割を地道ながら果たしています。       


そのような日本から、禅が欧米に静かに伝わり始めています。人間関係がぐちゃぐちゃだった18歳のスティーブ・ジョブズは、米在住の日本人禅僧に学び、その後20歳の時、永平寺(道元禅師開山)で修行するか、コンピューター事業を創業するか、どちらにすべきかと問い、禅僧は「修行はどこでも修行だ」と答え、アップル社創業を決意したとの話もあります。


また、アフリカや中東の国で掃除当番を小学校に取り入れた所がある、とTVで見たことがあります。子どもたちの教育に非常に効果があると言っていました。一方、欧州の某国では掃除は下層民がするものだとして採用されなかったそうですが。


                  やまとこたろう


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コメント

  1. 仏教国でもそれぞれ違いがあり、今、仏教は日本から世界に広がりつつあるのですね。

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    1. 長袖父さん コメントありがとうございます。

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