スキップしてメイン コンテンツに移動

9−2−1.十七条憲法の現代語訳:和を貴トウトびなさい。人をのろわないようにしなさい。

聖徳太子によって604年につくられ、日本人の高い道徳性のベースとなった十七条憲法の現代語訳です。その後の日本人の精神史の底流を流れる思想であり、その人間観は現代日本人にも大いに響くところがあるものでしょう。一方、私たち現代日本人に耳の痛いこともあるようです。


1.和を以モッて貴トウトしとなす:                  

和を貴トウトびなさい。人をのろわないようにしなさい。人は誰でも群れをつくりたがり、理想的な人格者というのは少ないものである。それゆえ、とかく指導者や父に従わなかったり、近隣と争ったりするものである。しかし、上下が和睦し平等の立場でしっかりと話し合えば、理想と現実の調和がおのずから実現し、成就できないことはないであろう。


2.篤アツクく三宝サンポウを敬ウヤマえ:                  

篤く三宝を敬いなさい。三宝とは仏と仏法と僧侶のことである。仏教はあらゆる生きものが最終的に帰り着くるところであり、すべての国々が仰ぐ究極のよりどころである。どのような時代のどのような人でも、この仏法を尊ばないものがあろうか。まったくの悪人はまれであり、よく教え諭せば必ず仏法に帰依するようになるものである。仏法に帰依しないで、どうやって曲がった心を正すことができるであろうか。


3.詔ミコトノリを承けては必ず謹ツツしめ:               

天皇の詔書を賜ったときは、必ず謹んでそれに従いなさい。天皇は天であり、臣は地である。天は地を覆い、地は天を戴き、それによって四季は規則正しく移りゆき、万物は通い合うのである。しかし、地が天(臣下が天皇)を覆おうとするなら、この秩序は破壊されてしまうだけである。だから、天皇の御言葉に臣下が従い、上の者が行えば下の者もこれにならうものである。したがって、天皇の詔書を賜ったときは、必ず謹んでそれに従いなさい。謹んで従わなければ、結局は国が滅んでいくことになるであろう。


4.官吏は、礼を基本とすること:                

官吏は、いつも礼を基本としなければならない。民を治める根本は、必ず礼にある。上の者の行いが礼法にかなっていないときは、下の者の秩序は乱れ、下の者に礼法がなければ、必ず罪を犯す者が出てくる。だから、群臣に礼法がたもたれていれば、社会の秩序も乱れず、天下万民に礼があれば国全体として自然に治まるものである。


◯私感:第一条にある「人をのろわないようにしなさい」というのは、現代日本人にとって耳の痛いことですね。ネット社会のSNSでよくある「死ね!」が、これですね。聖徳太子から1400年以上たっても「人をのろう」ことがなくならず、却ってひどくなっているような現代日本人の現状に恥ずかしい気持ちがします。


「人は群れをつくりたがり・・・上下が和睦し平等の立場でしっかりと話し合えば、理想と現実の調和がおのずから実現し、成就できないことはないであろう」も耳が痛いです。私たちの国会では、階級闘争史観に凝り固まったかのような言説が、不毛な論議で国会を機能不全に落とし入れる時があるような感じがするのは私だけでしょうか。日本と世界の課題を解決するために、日本文明のポテンシャルが活かせる時だと思うのですが、


他にもいろいろ私たちへのメッセージがあるように感じられます。みなさんはどう感じられますか?


続く・・・

                         やまと こたろう

 

                        


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

  1. 十七条の憲法には、当時の理想が書かれており、裏返すとなかなかに難しいことが書かれていたのだろうと思いました。今も昔もあるべきも人間の弱さも変わらないのだと思いました。

    そして、十七条の憲法は天皇にシラスの精神がないことには成り立たないもののように見えました。天皇をそうあり続けられたのか。だとすれば、どのような構造がそこにあったのか。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

20.イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドのGDPの推移;西暦0年から1900年代まで

①世界主要国であるイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドについての面白いグラフを見つけました。西暦0年から1900年代までの世界主要国の GDPの推移にみるグローバル経済史の流れ です。クリックしてご覧ください。このグラフから、次のことが読み取れます。 西暦0年:アジアのインド、中国、日本のGDPが記されている。                      1500年:欧米のGDPの記載が始まった。                    1700年:インドと中国のGDPが近づき、日本とイギリスとドイツのGDPが近づいた。                           1820年:GDP1位中国、2位インドが0年から1870年まで続く。日本が停滞しイギリスとドイツが抜いた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                       1870年:日本をのぞく5カ国のGDPが近づいた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                              1913年:アメリカのGDP成長率が異常に大きい。他の5カ国の成長が鈍化。この年のGDPは、1位アメリカ、2位ドイツ、3位中国、4位イギリス、5位インド、6位日本。                               1972年:GDP1位アメリカ、2位日本、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位インド。                                   1998年:イギリス、ドイツ、日本が鈍化のまま、中国とインドが急成長。 ②このグラフに人口・国土・資源・生産性を重ねて考えてみると、時代ごとの特徴が見えます。                                   17世紀まで:インド・中国的世界(アジア的世界)  人口が多く、国土・資源が多く、生産性が低い                                18・19世紀:イギリス的世界(20世紀後半のドイツ・日本・韓国も)  人口が少なく、国土・資源が少なく、生産性が高い                     19・20世紀:

14-3.中世の日英比較。そして、未だ見ぬ次世代のあなたへ

  本年もよろしくお願いいたします。 さて、日英それぞれの中世時代を概観してきましたが、それを踏まえて両国の比較をしてみようと思います。 ①王朝の移り変わり: 英国では、王朝が武力闘争によりフランス出身のノルマン朝からプランタジネット朝、ランカスター朝、デューダ朝へと三回変わりました。その間に、国王が英国人意識を持つようになり宮廷の公用語もフランス語から英語に変わったそうです。日本では、元寇の危機と武家の権力闘争がありましたが、幸いにも万世一系の天皇制が維持されました。 ②対外戦争: 英国は、王位継承権をめぐってフランスと 百年戦争 ・バラ戦争と戦いましたが、フランス内の領土を失い、王族と貴族の対立が表面化していきました。日本は、蒙古襲来を武士・朝廷・武士・宗教界が一体となって撃退することができました。 英仏間のドーバー海峡の幅は約50kmで、軍事上の大きな障害とはならなかったようですが、朝鮮半島との間の対馬海峡の幅は約200kmで、台風も有り、日本の国防に大きな機能を発揮してきました。日本は日本海に守られているという感じがしますね、ありがたいことです。 ③政治: 英国では、戦争は王族の領土的野心や権力闘争のためであり、貴族は不承不承徴税や従軍に応じるか反発するかであり、キリスト教会は王族の恣意的な権力行使を抑制しようとしました。貴族たちは王権の制限を求め、 大憲章(マグナ=カルタ) を国王に認めさせ、さらに議会開催を認めさせました。日本では、朝廷対武士という対立は生じず、朝廷の親任のもとに武家の統領が政治を担うという政治体制が確立し、その後六百数十年続きました。 ④軍事力: 英国は、16世紀に海軍を作り17世紀に陸軍を作りましたが、軍事力は当時の海軍大国スペイン・陸軍大国に比べ貧弱だったようです。日本は、種子島に伝来した火縄銃の量産化に成功し、当時の英国と同数の火縄銃を九州の一地方国家が保有するほどまでに急成長した、という記録があります。 日本侵略を目論んでいたスペインは、宣教師から日本の軍事力を知り、先ず弱体化した明を征服し明軍も動員し、日本国内のキリシタン大名と呼応して、日本を攻略しようと考えていました。しかしその間に、当時世界最強だったスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に破れるという番狂わせが起こったため、日本攻略の野望は消え去りました。 ⑤ 文学: 中世ヨーロ

19−2.日米関係; 日米不平等条約

    ①江戸時代後期、日本に多くの西洋列強の船が来航するようになりました。彼らは日本の市場で自分たちの商品販売を求めており、あわよくば植民地にしてしまおうと思っていました(帝国主義)。 実際に清はアヘン戦争に負け香港をイギリスに奪われています。江戸幕府もそのことを知っており相当な危機感を持っていました。 200年以上鎖国していた日本は、西洋との交流が極めて限定的だったため、当時の軍事技術は西洋列強と比べてかなり劣っていました。 アメリカ船の砲弾はこちらに届くが、こちらの砲弾は届かないなどといった感じです。そもそも海軍を持っていなかったこともあり、アメリカの軍艦になすすべがありませんでした。 そんな圧力を受けながらの交渉だったため、植民地化という最悪の事態を避けるためには、条約を拒否するという選択はありえませんでした。 ②1854年(嘉永7年)に結ばれた日米和親条約は、アメリカの捕鯨船に対する燃料の補給など限定的な内容でしたが、1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約は、日本に強く開国を求め多くの不平等な内容を含んでいました。 江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、不平等な内容を改正するのに大変な苦労をすることになります。 日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれたのは、アメリカの領事裁判権を認めたことと片務的な協定関税率制度を採用したという点です。またその前の日米和親条約で締結された片務的最恵国待遇も日米修好通商条約で引き継がれており、これも不平等な点です。 ③領事裁判権を認めるとはどういうことかというと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けずアメリカの法律で裁くということ(治外法権が認められるということ)です。そのためアメリカ人に甘い判決が出るなどの弊害が出ました。 ④協定関税率制度というのは関税を決めるのに相手国の同意が必要で関税自主権がないということです。片務的なものですから日本が関税を変更するにはアメリカの同意が必要ですが、アメリカが関税を変更するには日本の同意が必要ではありません。 ⑤最後に片務的最恵国待遇ですが、これはアメリカ以外の国と同じような条約を結び、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件があるときは、アメリカにも自動的にその条件が当てはめられるというものです。これも関税率と同じくお互いの国が最恵国待遇を受けるのなら不平等で