スキップしてメイン コンテンツに移動

8−3−5 古代日本が目指した「しらす」政治、と西洋の「うしはく」政治の比較

 ここで、古代日本が目指した「しらす」政治と、古代西洋・シナの「うしはく」政治の特徴を比較してみましょう。                   

漢字:しらす(知らす、添らす、治らす)  うしはく(主佩く) 

定義:民の様子をり、民に寄りい、   人として土地と民を私有し、                  世がまることを願い祈る        ほしいままにする        

権威と権力の分離:有り         無し              

権威:神代までつながる天皇のありよう  王は権力等で権威獲得を目指すが?                            

権力:天皇が適任者に権力を親任する   王が権力を直接独占する絶対王政         

意志決定:神代以来の皆で話合い     独断              

暴走:権力者の暴走は天皇が抑制     王の暴走は抑制不可能      

奴隷:なし(万民は大御宝)         あり(社会的必需品)       

格差:小                大               

該当国:日本              西洋・シナ

それぞれの特徴は、それまでの民族の歴史によって形成されたものです。その後今日に至るまでの歴史を通底することになるのです。      


では、また、聖徳太子の独白に戻ります:

お釈迦さま、天皇は民と国土の所有者ではなく、天照大御神アマテラスオオミカミから万民の安全と幸せを付託された者です。国民統合の象徴である天皇が、民を知り、民の幸せを祈り、民に奉仕する「しらす」政治を、この国の国柄として明確にしようと思います。

お釈迦様、どうかこの国の民をお守りください、私たちをお導きください。  


この独白の後、太子は、仏教興隆の詔、十七条憲法、官位十二階、随との外交、大陸文化活用、寺院建立、インフラ整備、医療事業、文化学問振興などなど、順次、今日の日本の根幹をつくっていかれました。


そして、太子がつくられた国づくりの理想は、代々の天皇に脈々と受け継がれてきています。


例えば、今上キンジョウ天皇が即位大礼の時にお召になられた御着物が、広隆寺の聖徳太子像にお着せになられています。

歴代の天皇も同じようにされてきており、太子の理想を大切にされておられる一つの証アカシでしょう。


また、昭和天皇の辞世の句には、聖徳太子に至り更に天照大御神に至るまでの無窮の深みがあるように私には思われます。                              「堀の蓮ハチスの華ハナみつつ仏の教え思う朝かな」     

(最晩年の年、皇居のお堀の蓮華の華をご覧になって詠まれたものと拝察されます。敗戦を乗り越えられた昭和天皇のお心の無量の思いが察せられ、胸があつくなります。)


聖徳太子は、庶民にも大変崇敬され、太子はお釈迦様の生まれ変わりだ、観音菩薩様だと、庶民の信仰の対象にもなりました。

大工をはじめ、建築関係の職人の守護神として崇敬され、職人が集まる太子講などの場において篤く祀られています。

また、太子信仰は法隆寺と四天王寺を中心に日本仏教と共に発展してきました。また地方の風習と融合した土着化や神社での祭祀、太子講など多様な信仰が生まれ現在まで受け継がれてきています。

                          やまと こたろう


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

9−1−1.七世紀の英国と日本の政治の比較

七世紀頃の英国と日本の政治について比較してみることにします。英国に成文化されたものがありませんが、日本に十七条憲法があります。 ◯七世紀の英国の政治についての私見(不明では、比較もできませんので):     イングランドを、アングロサクソン人の七王国が支配していたこの頃は、絶対王政の萌芽期であったと考えられます。 アングロサクソン王の戦闘 「王は領土と人民の生命財産をほしいままにできる権限を神から与えられており、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」と王が、武力を依り所に主張していたようです。 その後、12世紀に イングランド国王ヘンリー1世 が、超自然的霊的治癒力獲得を理由にローマ教皇からの王権の独立を主張しました。 16世紀に王権神授説として理論化され、長らく「神の代理人」とされてきたローマ教皇の権威・権力からの王権の独立と、人民に対する絶対的根拠とされました。代表的な論者に、フランスのボダンやボシュエ、英国のフィルマーなどがいます。 〇日本では、豪族間の対立と、シナ大陸を軍事統一した 隋の脅威 があり、国をまとめ、独立を維持することが急務でした。そのために、聖徳太子が、604年に 十七条憲法 を制定し、象徴天皇を中心とした万民平等の国の「しらす」政治の具体的内容を成文化しました。 もしこの時、聖徳太子の一連の諸施策が効果をあげなかったとしたら、日本は軍事力により権力が奪取される「うしはく」統治の国に激変させられ、数万年にわたって培われてきた平和で世界で最もユニークな日本文明が破壊され、民は権力者にほしいままにされ、日本人の高い道徳性も破壊され、今の日本とはまったく別の国柄と民衆となっていったでしょう。あらためて、聖徳太子様と今日までの多くのご先祖様方のお骨折りに感謝します。 十七条憲法の内容については、私自身も不勉強で「和をもって貴しとなす」ぐらいしか知りませんでした。このブログを書くようになったおかげで、十七条憲法の精神が、明治天皇の 五箇条の御誓文 、明治憲法、 昭和天皇の新日本建設に関する詔書 、日本国憲法を通底していることを知りました。 十七条憲法は、今も有効であり、今日の日本を動かしている根底にあり、また日本のリーダーたちがこれまでどのように考えてきたかを

11-1-2 大航海時代の日本植民地化を危うく回避

  ①マゼランがフィリピンに来てから40年で、フィリピンは当時世界最強の国家であったスペインの植民地とされ、スペイン国王フェリペ二世の名にちなんでフィリピン国と名付けられました。その頃、日本植民地化の先兵として日本に来たのが、イエズス会のフランシスコ・ザビエルです。16世紀に創設されたイエズス会は「神の軍隊」、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、軍隊的規律で知られていました。ザビエルは信長に近づき、キリスト教布教と南蛮貿易の許可を得ました。戦国大名たちは、火薬の原料である硝石の入手を求め、見返りに領内での布教を認めました。そして、キリシタン大名16名、信徒数10〜30万人にまで増えていきました。 ②秀吉は、当初布教を容認していましたが、九州平定後、宣教師たちの先導により九州が非常に危険な状態となっていることを目のあたりにしました。 つまり、佐賀・長崎の領主が、キリシタン大名となり、寺社の破壊、僧侶を含む全住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の迫害、反対者の国外追放を行っていることを知りました。更にキリシタン大名は、長崎港周辺をイエズス会に寄進し、イエズス会が長崎の軍事要塞化を指示し、数年後には、大砲、鉄砲、軍艦を配備したということを知りました。 ???神道・仏教弾圧を正当化する理由: イエズス会の観点からすれば、日本人が神仏と称しているものは、悪魔にほかならず、この悪魔から解放することなしに日本人の魂の救済は不可能なのだ。??? ③更に秀吉は、ある事件から、スペインの日本植民地化戦略を知りました。それは、明を植民地化したいが、宣教師から得た情報ではスペイン単独では軍事的観点から無理なので、鉄砲の保有数が多く実践経験も豊富な九州のキリシタン大名に命じ、共闘して明を攻略し、明征服後、明も加えた軍事力で日本全部を攻略し植民地化する、というものでした。九州のある藩の鉄砲保有数が、イングランド全体よりも多かったという情報もあります。 ④また、数万人規模の日本人が奴隷として南蛮商人によって、東南アジア・欧州・中南米に輸出されていることも知りました。 ???奴隷売買を正当化する理由: 異教徒は人間ではない。キリスト教徒の奴隷になると、宣教師の洗礼を受けてようやく人間となる。奴隷であっても人間になった方が良い。それが本人の魂の救済であるし、またそうすることが神への奉仕となる。??

10-1-3 1〜10世紀の西洋文学から観る:古代ギリシャ・ローマ文化〜キリスト教ヨーロッパの誕生

西洋と日本それぞれの根源的な特徴を言語化していくヒントが得られないかと、双方の代表的文学作品をあげ、それぞれの民族的・宗教的・文化的・思想的傾向について考察してみようと思います。まず、1〜10世紀の西洋における代表的な文学作品とその簡単な内容について、GPT4君の協力も得て以下のようにまとめました。 ・1世紀:ローマ帝国の詩人 オウィディウス が「変身物語 」を書きました。これはギリシア神話やローマ神話の登場人物たちが様々な姿に変身する物語を集めたものです。 ・ 2世紀:ギリシア人の作家 ロンゴス が「ダフニスとクロエ 」を書きました。これは牧歌的な恋愛物語で、シチリア島で育った二人の羊飼いが恋に落ちる過程を描いています。 ・3世紀:エジプトの作家 ヘレニスティック・ロマンス が「 アイティオピカ 」を書きました。これはエチオピアの王女とテッサリアの王子の冒険と恋愛を描いた物語で、多くの奇跡や危機が起こります。 ・ 4世紀:キリスト教の神学者 アウグスティヌス が「 告白録 」を書きました。これは彼自身の罪深い過去とキリスト教への回心を語った自伝的な作品で、西洋文化に大きな影響を与えました。 ・5世紀:ギリシア人の歴史家 プロコピオス が「 戦争誌 」と「 秘史」を書きました。「戦争誌」は東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の治世下で起こった戦争を記録したもので、「秘史」はユスティニアヌス帝やその妻テオドラの暗部を暴露したものです。 ・6世紀:イタリア人の詩人 ボエティウス が「 哲学の慰め 」を書きました。これは彼が政治的な陰謀によって投獄された際に、哲学と対話することで自らを慰めるという形式で書かれた作品です。 ・7世紀:西洋文学の中で最古の叙事詩である『ベーオウルフ』が古英語で書かれ、英語文学の源流とされています。この作品は、デンマークの王ヒューゲラクとその家臣ベーオウルフが、怪物グレンデルやその母親、火の竜と戦う物語で、北欧神話やゲルマン民族の伝承が反映されています。 ・8世紀:カール大帝(フランク国王、初代神聖ローマ皇帝)の宮廷でラテン語文学が隆盛しました。代表的な作品には、カール大帝の側近エイギルハルトが書いた『 カール大帝伝 』( ローマ帝国滅亡後のヨーロッパに「秩序」と「文明」の光明をもたらし、キリスト教文明の基礎づくりをしたフランク王国の創設者カロル