(前編 新しい歴史観へ:ワシントン会議の真実 51−2の1)
第三章:日本最大の抑止力、日英同盟の終焉
ワシントン会議において、軍縮比率よりもさらに決定的な影響をもたらしたのは、日英同盟の解消です。
1.日英同盟の歴史的意義
日英同盟は1902年に締結され、日本の近代史における最大の成功の一つでした。
これにより、日本は世界最強国の一つであったイギリスを後ろ盾に、
日露戦争を勝利に導き、国際的地位を確立しました。
この同盟は、極東における日本の最大の「抑止力」であり、
特にアメリカが日本を仮想敵国と見なし始めた時代において、
アメリカが日本に手出しできない最大の防波堤となっていました。
なぜなら、アメリカが日本に攻撃を仕掛ければ、日英同盟の規定により、
自動的に世界最強のイギリスを敵に回すことになったからです。
アメリカの真の狙いは、この邪魔な同盟を潰すことでした。
2.国際協調の美名による国益の放棄
日英同盟を解消するために、アメリカは「四カ国条約」(日米英仏)を提案しました。
これは太平洋の現状維持を確認するに過ぎない実質的な意味の薄い条約でしたが、
その裏には、第一次世界大戦でイギリスがアメリカに負った債務の返済を
要求するなど、半ば脅迫めいた外交交渉がありました。
当時の日本側全権であった幣原喜重郎外務大臣(後に首相)は、
国際協調の理想を重んじすぎるあまり、
「四カ国条約は世界平和を望む諸国の希望である」として、
この提案をすんなりと受け入れてしまいました。
これにより、日本は、アメリカという巨大な力を前に、
最大の抑止力であったイギリスの支援を永久に失うことになりました。
国際平和への貢献という大義名分の下で、
日本の安全保障が決定的に弱体化させられた瞬間でした。
結びに:抑止力の喪失と戦争への道
ワシントン会議は、日本が外交的・軍事的に追い詰められ、孤立化の道を歩むきっかけとなりました。
集団的自衛権(同盟)の放棄は、日本にとっての最大の「抑止力の喪失」であり、この後、アメリカは遠慮なく日本を狙い撃ちにし、最終的にハル・ノートへとつながる経済制裁と外交的圧力をかけていきました。
私たちが歴史を学ぶとき、結果としての「戦争」だけを見て「全てが悪かった」と断じるのではなく、当時の指導者たちが、いかに不公平な国際環境の中で、国益を守るために苦悩し、やむを得ない選択を迫られたのか、という「正の側面」にも目を向けることが重要です。
この歴史の教訓は、今日の安全保障の議論、特に「抑止力」の重要性を考える上で、極めて重い示唆を与えてくれます。
やまとこたろう
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