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26-7. 大日本帝国の初期議会における大混乱に学ぶ国会のあり方

 

①当時の世界で最も民主的な憲法を作った結果、ドイツの憲法学者シュタイン教授などが心配していた通り、日本の政治に大混乱が起きることになりました。その中身について見ていきましょう。


当時の状況としては、税収を安定させ、近代化を実現し、西欧列強の侵略から日本を守っていこうとする吏党、今で言う与党と、ある程度お金を持っている国民を支持層とした民党、今で言う野党があってそれらが争っていたわけです。


当時の日本というのは、自虐史観(自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価し、自国を貶める歴史観)の人たちに言わせれば、天皇独裁国家ですから、当然警察権力を使って与党が圧勝したはずですよね。では、結果を見てみましょう。



②第一回衆議院議員総選挙:明治23年7月施行、投票率93.9%。             吏党(与党)84、民党(野党)171、無所属45、合計300。


あれあれ、野党が圧勝していますよ。自由のない独裁国家のはずなのに、不思議ですよね。当時は、政党内閣制(総選挙で勝った政党が内閣を組織する)にまだ移行していませんでしたので、少数与党が内閣を組織するわけですが、予算がまったく通らず、政治が回らないという苦境に陥ります。


そこで、困った与党は、第一回帝国議会では、数が倍いる野党の議員に対して、なんとか予算を通すため賄賂を贈るわけですね。後にも先にもこれ以上ない大規模な買収工作を行って、なんとか予算を通します。



③続く第二回帝国議会ではどうなったか。シナやロシアの脅威がそこまで迫って来ているのに、野党の議員が軍艦建造費の予算を通さないわけです。予算通して欲しければ、また金よこせというような野党の態度に、海軍大臣がブチ切れます。


「日本が近代化して独立国でいられるのは、軍のおかげだろうが。ちっとは俺達に協力しろ。馬鹿野郎!」というようなことを議会で言ってしまったわけです。これが原因で、衆議院は解散となってしまいます。



④さあ、やって来ました、第二回総選挙。第一回総選挙で負けたら大変なことになるということを学習した与党は必死になります。また負けたら、予算が通らず、軍艦建造が出来ないということが繰り返されるので、警察権力を使って、大規模な選挙干渉を行います。結果としては、全国で死者25人を出してしまうという流血の惨事になってしまったのです。


警察権力を使ってますから、これは与党勝利のはずですよね。では、結果はどうか。


第二回総選挙、投票率91.6%。与党124、野党132、無所属44、合計300。


あれれ、警察権力まで使ったのに、野党が勝利していますよ。こうなると、また予算が通らず、必要な国防力を持てず、日本が国家存亡の危機に陥ってしまうことになってしまいます。



⑤ここで、最後の切り札として、天皇が登場してくることになります。天皇自らが「よし、分かった。そんなに野党がどうしても予算を通さないと言うのだったら、私も皇室予算を全部削るから、そのお金で必要な政策をやってほしい。」と言われ、「私も身を切るから、みなも私欲を捨てて国家・国民のために働いてほしい」ということを自らの姿勢で示されたわけです。


これにより、ようやく野党も考え直し、「党利・党略を捨て、日本という国家・国民に必要な予算は通してやろう」ということになったわけです。


天皇が命令したわけではありませんが、つまり、天皇に政治権力はないのですが、いざというときには影響力があるというしらす政治システムが機能しており、ありがたいことに、日本存亡の危機を乗り越えることができたわけですね。




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