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24−5−3.帝国主義国家アメリカの海外進出:フィリピン、中国、そして日本との激突

  ◯フィリピン植民地支配とマッカーサー一家: 米西戦争によってアメリカは価値の高いものを手にしました。それはフィリピンの植民地支配です。1898年、アメリカ海軍はマニラ湾のスペイン艦隊を一夜にして全滅させ世界を驚かせました。 アメリカは陸上に拠点を持たなかったので、フィリピン独立派を利用することを考え、海外に亡命していた独立運動の指導者を呼び戻し、「独立」を餌に陸上戦に従軍させました。 しかし、アメリカに協力して戦ったフィリピンの独立派は、戦後アメリカに見事に裏切られ、フィリピンの独立は認められず、アメリカの植民地とされました。 アメリカの植民地支配に反抗する数十万人のフィリピン人を、アメリカ軍は虐殺し独立運動の息の根を止めました(米比戦争1899年〜1913年)。 その米比戦争の司令官がアーサー・マッカーサーでした。彼は事実上のフィリピン総督となり、マッカーサー一家がフィリピンに多くの権益と資産を獲得することになりました。その次男が、後に太平洋戦争後、敗戦国日本を軍事占領した連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーでした。 ◯中国権益をめぐっての日米対立が太平洋戦争へと繋がる: さらにアメリカは中国利権獲得の野心を露わにし、「門戸開放」「機会均等」「領土保全」の三原則を掲げ、中国割譲の分け前を 列強諸国に要求しま した。 アメリカが最初に清国に手を出したのは、1900年に起きた義和団事件鎮圧で、連合国の一員として出兵したのが最初でした。アメリカは日露戦争において日本が善戦したのを見て、ルーズベルト大統領はその調停役を買って出ました。 日本は日清戦争に完勝し、三国干渉はありましたが朝鮮を保護国とし後に併合しました。日本が日清戦争を起こしたのはロシアの南下策に対抗するものでしたが、朝鮮併合後もロシアの圧迫は強まり、ついに1905年ロシアと戦端を開き、満州を主戦場とする日露戦争が開始されました。世界一の陸軍国ロシアへの挑戦は無謀とも思われましたが、日本陸軍は善戦し、一方海軍はロシア極東艦隊を撃滅し、極東に遠征してきたバルチック艦隊を日本海において全滅させました。このため、ロシア側からも講和の気運が出て、前出のようなアメリカの仲介もあり停戦講和となりました。 この戦争により日本は、満州に大きな権益を獲得しましたが、そこは以前からアメリカが狙いを付けていた地域でもありました

24−5−2.帝国主義国家アメリカの海外進出

◯イギリスを抜き世界最大の工業国となっていったアメリカは、西部開拓時代が終わり、膨大な工業製品の市場と工業用原材料の供給源を海外に求めて、最強の帝国主義国家になっていきました。彼等の目は先ずラテンアメリカに向けられていき、強大な経済力と軍事力を駆使してラテンアメリカ 内庭化を強行していきました。次に、広大な太平洋を支配し、更にその先の中国大陸を狙いました。 ◯ハワイ併合: 多くのアメリカ人がハワイ国に移住していき、持ち込まれた疫病によって多くのハワイ人がなくなりました。アメリカ人入植者は、次第に砂糖やパイナップル事業に進出し、1890年頃にはハワイを経済的にも政治的にも支配するようになりました。アメリカ人入植者は、アメリカ海軍の援助を得てクーデターを起こし新政府を樹立し、1898年にハワイは合衆国に併合されました。その激変の中で、ハワイ国王が独立維持のため、明治天皇に助けを求めに来たことがありました。 ◯キューバを実質的に支配:                            1898年、アメリカはキューバの支配権をめぐり宗主国スペインと戦争をしました(米西戦争)。この戦争に勝利したアメリカはキューバを実質的に支配下に納めました。この戦争は、アメリカが帝国主義国家に転換したことが明らかになった戦争であったと同時に、スペインのラテンアメリカ植民地支配を完全に終わらせた戦争でもありました。 この戦争の発端は、1895年に起こった第二次キューバ独立戦争にありました。コロンブスの新大陸発見以来、スペインによる砂糖プランテーションを中心としたキューバ植民地支配は、奴隷制度を含めて極めて過酷なものでした。これにキューバ人が反抗して独立戦争が始まりましたが、スペインの弾圧は依然として続き、一方キューバの砂糖資源に権益を持っていたアメリカはこれを失う事を懸念して、1898年2月アメリカ軍艦メイン号の爆沈事件を口実に、スペインに米西戦争をしかけました。 アメリカ海軍は、ラテンアメリカの各地、さらに太平洋のフィリピン、グァムなどのスペイン植民地軍を攻撃し、わずか4ケ月でアメリカ軍が勝利しました。 同年12月両国の講和が成立し、アメリカは、フィリピン・プエルトリコ・グァムの領有権をスペインから獲得しました。又、アメリカはキューバの独立をスペインに承認させましたが、その後キューバをア

24−5−1.アメリカの領土拡大と帝国主義

  ◯西方への領土拡大(1783年〜1890年):                アメリカは、独立後から西部への領土拡大を進め、現在の50州の領土へと拡大していきました。この運動を「西部開拓」や「西漸(せいぜん)運動」と呼び、合衆国の人々は「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」をスローガンとして、先住民掃討を正当化しました。当時のアメリカは人口増加による土地不足に悩まされており、西部開拓は「神からの思し召し」であると主張しました。独立当時1200万人いた先住民が、西洋人が持ち込んだ伝染病と武力攻撃などにより、現在200万人にまで激減していきました。 アメリカは、1783年にイギリスから領土を割譲したり、1803年にフランスから領土を購入したりするなど、次々に領土を拡大していきました。また、テキサス併合やメキシコ・アメリカ戦争(米墨戦争)を経て、メキシコ領であったカリフォルニアからテキサスへ至る領域を獲得しました。 1890年には開拓者たちが西海岸カリフォルニアに到達し、「フロンティアの消滅」が宣言されました。一方、アメリカの西方への領土拡大は、新しい獲得地への奴隷制の導入をめぐって南部と北部の間に強い対立を生み出しました。 ◯帝国主義時代(1890年〜1918年): 西部開拓時代の終結によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求めました。1889年にパン・アメリカ会議を開催し、アメリカの武力を背景としたラテンアメリカ市場の囲い込みを始めました。 アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していきました。1898年にハワイ王国をなし崩し的に併合し、領土を太平洋上まで拡大しました。さらに同年、スペイン領キューバの独立戦争に便乗し、軍船「メイン号」爆発事件を口実に、スペインとの間で米西戦争を起こしました。この開戦には、当時普及していた新聞が大きな役割を果たしました。すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行い、新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例となりました。米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用しました。 米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して中小国を植民地( バナナ共和国 )とし、キューバを保護国に、プエルトリコやフィリピン、グアム島などを植民地化しました

24−4−7.列強による中国分割

◯19世紀末期、日本がようやく近代国家を形成し始めた頃、欧米先進資本主義諸国は既に帝国主義段階に突入していました。列強は工業生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を獲得するために、こぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合い、その矛先は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられました。 ◯列強の世界政策:                                イギリスは、1875年に スエズ運河 株を買収し、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に就任してインドを完全に自国の領土とし、1880年代にはビルマ(現、ミャンマー)を併合するなど、ロシアと対立しつつ勢力を東へ仲ばすー方、フランスと対立しつつアフリカ分割を進めました。                                  フランスは、1884年に清仏戦争をおこして翌年にベトナムを保護国とし、1887年には仏領インドシナ連邦を形成しました。                           ドイツは、1870年代から80年代に南太平洋の島々を植民地としましたが、1890年代には、更に積極的な世界政策を進めました。                         ロシアは、1877年に露土戦争でオスマン帝国を撃破してバルカンに南下するとともに、1890年代にはシベリア鉄道の建設を進めるなど、アジアヘも進出を続けました。     アメリカは遅ればせながら、1860年代末、太平洋横断の定期航路を開いて、東アジア貿易をイギリスと競い、1898年にはハワイを併合し、さらにスペインと戦って(米西戦争)フィリピン・グアムを植民地とし、最大市場である中国進出のチャンスをうかがいました。 ◯日本にとって、とくに脅威だったのはロシアの南下の動きでした。日本は日清戦争によって朝鮮の独立を清国に認めさせ、朝鮮から清国の勢力を排除することに成功しました。しかし、三国干渉による日本の威信低下に乗じて、ロシアが朝鮮に勢力を伸ばし、親露派政権が作られ、朝鮮をめぐる日露の対立は深まっていきました。 ◯ー方、当時の世界で人口数1位・GDP1位のアジアの大国であった清国が日清戦争に敗れて弱体ぶりを露呈すると、列強は一斉に清国分割に拍車をかけました。 ドイツが宜教師殺害事件をきっかけに、1

24−4−6.大英帝国の中国侵略:更に戦争を仕掛ける:アロー号事件

   ◯ 1840年~1842年にかけて アヘン戦争 が勃発しました。イギリスが武力を用いて中国にせまり、港を開かせて自由貿易に組み込んだ戦争でした。 イギリスはこの戦争に圧勝し、清に不平等条約を結ばせましたが、思いのほか貿易で利益を得ることはできませんでした。中国の港を開かせ貿易を行っているのに、思うように儲けることができなかったのです。そこでイギリスは もう1度中国に戦争を仕掛けようと企みました。 ◯そんな中、1856年に アロー号事件が起こりました。広州湾に停泊中のアヘン密輸船アロー号に清朝の警察が立ち入り検査を行い、アロー号の中国人船員を逮捕したという事件でした。 イギリスはこれに抗議しました。アロー号は イギリス国旗を掲げていた のですが、イギリスは「中国が国旗を引きずりおろしたのはイギリスに対する侮辱行為だ!」と主張し、これを口実に中国へ宣戦布告したのです。しかもイギリスはフランスの ナポレオン3世 に共同出兵をもちかけました。   こうして始まったのが アロー戦争 です。強大な2国を相手に中国はなすすべもなく、英・仏軍は中国をどんどん北上していきました。清は降伏を宣言し、 天津条約 の締結を両国へ呼びかけました。  ◯ そして英・仏の調印使節がやってきたとき、ある事件が起こりました。清の保守派らが英・仏の使節に発砲したのです。 これは中国政府にとって予想外の出来事でした。 英仏はこれに反発し、再び軍事行動を再開することになりました。   戦争を再開した英・仏軍は、ついに当時の清の都 北京 を占領しました。北京にあった 円明園 を破壊し、清の皇帝を逃亡に追いやったのです。円明園は、清の康熙帝の時代につくられた皇帝の離宮です。 最終的に、清はアロー戦争の講和条約として 北京条約 を締結することになりました。 ◯北京条約の主な内容は4つです。                         1つ目は 外国公使の北京駐在 です。清の都北京には、イギリスやフランスの外交使節が常に駐在している状態になった、ということです。清は外交を担当する役所として 総理各国事務衙門 を設置することになりました。   2つ目は キリスト教布教の自由 です。これを受けて多くの宣教師が中国へやって来ることになりました。   3つ目は 開港場の増加 です。 南京 を含む合計10港