スキップしてメイン コンテンツに移動

24−4−7.列強による中国分割


◯19世紀末期、日本がようやく近代国家を形成し始めた頃、欧米先進資本主義諸国は既に帝国主義段階に突入していました。列強は工業生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を獲得するために、こぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合い、その矛先は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられました。

◯列強の世界政策:                                イギリスは、1875年にスエズ運河株を買収し、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に就任してインドを完全に自国の領土とし、1880年代にはビルマ(現、ミャンマー)を併合するなど、ロシアと対立しつつ勢力を東へ仲ばすー方、フランスと対立しつつアフリカ分割を進めました。                                 
フランスは、1884年に清仏戦争をおこして翌年にベトナムを保護国とし、1887年には仏領インドシナ連邦を形成しました。                          
ドイツは、1870年代から80年代に南太平洋の島々を植民地としましたが、1890年代には、更に積極的な世界政策を進めました。                        
ロシアは、1877年に露土戦争でオスマン帝国を撃破してバルカンに南下するとともに、1890年代にはシベリア鉄道の建設を進めるなど、アジアヘも進出を続けました。    
アメリカは遅ればせながら、1860年代末、太平洋横断の定期航路を開いて、東アジア貿易をイギリスと競い、1898年にはハワイを併合し、さらにスペインと戦って(米西戦争)フィリピン・グアムを植民地とし、最大市場である中国進出のチャンスをうかがいました。

◯日本にとって、とくに脅威だったのはロシアの南下の動きでした。日本は日清戦争によって朝鮮の独立を清国に認めさせ、朝鮮から清国の勢力を排除することに成功しました。しかし、三国干渉による日本の威信低下に乗じて、ロシアが朝鮮に勢力を伸ばし、親露派政権が作られ、朝鮮をめぐる日露の対立は深まっていきました。

◯ー方、当時の世界で人口数1位・GDP1位のアジアの大国であった清国が日清戦争に敗れて弱体ぶりを露呈すると、列強は一斉に清国分割に拍車をかけました。
ドイツが宜教師殺害事件をきっかけに、1898年に山東半島の膠州湾を租借すると、続いてロシアが、三国干渉によって日本が清国に返還した遼東半島の旅順・大連などを、イギリスが威海衛(山東半島の港)九竜半島(香港)を、フランスは広州湾をそれぞれ租借し、アメリカは1899年、清国に対する門戸開放・機会均等・領土保全を宣言して、列強の清国進出に割り込む姿勢を示しました。
列強はこれらの租借地を根拠地として鉄道敷設権や鉱山採掘権などを得て、清国での権益を拡大していきました 。とくにロシアは東支鉄道の敷設権を得て、満州(現中国東北地方)進出を進めました。


◯列強の勢力範囲:                                  ロシア:満州、内蒙古                                 日本:台湾、福建省、朝鮮                               ドイツ:山東省                                    イギリス:長江流域(安徽省、湖北省、四川省)                     フランス:広東省、広西省、雲南省、ベトナム                      アメリカ:フィリピン、グアム、ハワイ

                     やまとこたろう                



ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

20.イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドのGDPの推移;西暦0年から1900年代まで

①世界主要国であるイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドについての面白いグラフを見つけました。西暦0年から1900年代までの世界主要国の GDPの推移にみるグローバル経済史の流れ です。クリックしてご覧ください。このグラフから、次のことが読み取れます。 西暦0年:アジアのインド、中国、日本のGDPが記されている。                      1500年:欧米のGDPの記載が始まった。                    1700年:インドと中国のGDPが近づき、日本とイギリスとドイツのGDPが近づいた。                           1820年:GDP1位中国、2位インドが0年から1870年まで続く。日本が停滞しイギリスとドイツが抜いた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                       1870年:日本をのぞく5カ国のGDPが近づいた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                              1913年:アメリカのGDP成長率が異常に大きい。他の5カ国の成長が鈍化。この年のGDPは、1位アメリカ、2位ドイツ、3位中国、4位イギリス、5位インド、6位日本。                               1972年:GDP1位アメリカ、2位日本、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位インド。                                   1998年:イギリス、ドイツ、日本が鈍化のまま、中国とインドが急成長。 ②このグラフに人口・国土・資源・生産性を重ねて考えてみると、時代ごとの特徴が見えます。                                   17世紀まで:インド・中国的世界(アジア的世界)  人口が多く、国土・資源が多く、生産性が低い                                18・19世紀:イギリス的世界(20世紀後半のドイツ・日本・韓国も)  人口が少なく、国土・資源が少なく、生産性が高い                     19・20世紀:

19−2.日米関係; 日米不平等条約

    ①江戸時代後期、日本に多くの西洋列強の船が来航するようになりました。彼らは日本の市場で自分たちの商品販売を求めており、あわよくば植民地にしてしまおうと思っていました(帝国主義)。 実際に清はアヘン戦争に負け香港をイギリスに奪われています。江戸幕府もそのことを知っており相当な危機感を持っていました。 200年以上鎖国していた日本は、西洋との交流が極めて限定的だったため、当時の軍事技術は西洋列強と比べてかなり劣っていました。 アメリカ船の砲弾はこちらに届くが、こちらの砲弾は届かないなどといった感じです。そもそも海軍を持っていなかったこともあり、アメリカの軍艦になすすべがありませんでした。 そんな圧力を受けながらの交渉だったため、植民地化という最悪の事態を避けるためには、条約を拒否するという選択はありえませんでした。 ②1854年(嘉永7年)に結ばれた日米和親条約は、アメリカの捕鯨船に対する燃料の補給など限定的な内容でしたが、1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約は、日本に強く開国を求め多くの不平等な内容を含んでいました。 江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、不平等な内容を改正するのに大変な苦労をすることになります。 日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれたのは、アメリカの領事裁判権を認めたことと片務的な協定関税率制度を採用したという点です。またその前の日米和親条約で締結された片務的最恵国待遇も日米修好通商条約で引き継がれており、これも不平等な点です。 ③領事裁判権を認めるとはどういうことかというと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けずアメリカの法律で裁くということ(治外法権が認められるということ)です。そのためアメリカ人に甘い判決が出るなどの弊害が出ました。 ④協定関税率制度というのは関税を決めるのに相手国の同意が必要で関税自主権がないということです。片務的なものですから日本が関税を変更するにはアメリカの同意が必要ですが、アメリカが関税を変更するには日本の同意が必要ではありません。 ⑤最後に片務的最恵国待遇ですが、これはアメリカ以外の国と同じような条約を結び、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件があるときは、アメリカにも自動的にその条件が当てはめられるというものです。これも関税率と同じくお互いの国が最恵国待遇を受けるのなら不平等で

14-3.中世の日英比較。そして、未だ見ぬ次世代のあなたへ

  本年もよろしくお願いいたします。 さて、日英それぞれの中世時代を概観してきましたが、それを踏まえて両国の比較をしてみようと思います。 ①王朝の移り変わり: 英国では、王朝が武力闘争によりフランス出身のノルマン朝からプランタジネット朝、ランカスター朝、デューダ朝へと三回変わりました。その間に、国王が英国人意識を持つようになり宮廷の公用語もフランス語から英語に変わったそうです。日本では、元寇の危機と武家の権力闘争がありましたが、幸いにも万世一系の天皇制が維持されました。 ②対外戦争: 英国は、王位継承権をめぐってフランスと 百年戦争 ・バラ戦争と戦いましたが、フランス内の領土を失い、王族と貴族の対立が表面化していきました。日本は、蒙古襲来を武士・朝廷・武士・宗教界が一体となって撃退することができました。 英仏間のドーバー海峡の幅は約50kmで、軍事上の大きな障害とはならなかったようですが、朝鮮半島との間の対馬海峡の幅は約200kmで、台風も有り、日本の国防に大きな機能を発揮してきました。日本は日本海に守られているという感じがしますね、ありがたいことです。 ③政治: 英国では、戦争は王族の領土的野心や権力闘争のためであり、貴族は不承不承徴税や従軍に応じるか反発するかであり、キリスト教会は王族の恣意的な権力行使を抑制しようとしました。貴族たちは王権の制限を求め、 大憲章(マグナ=カルタ) を国王に認めさせ、さらに議会開催を認めさせました。日本では、朝廷対武士という対立は生じず、朝廷の親任のもとに武家の統領が政治を担うという政治体制が確立し、その後六百数十年続きました。 ④軍事力: 英国は、16世紀に海軍を作り17世紀に陸軍を作りましたが、軍事力は当時の海軍大国スペイン・陸軍大国に比べ貧弱だったようです。日本は、種子島に伝来した火縄銃の量産化に成功し、当時の英国と同数の火縄銃を九州の一地方国家が保有するほどまでに急成長した、という記録があります。 日本侵略を目論んでいたスペインは、宣教師から日本の軍事力を知り、先ず弱体化した明を征服し明軍も動員し、日本国内のキリシタン大名と呼応して、日本を攻略しようと考えていました。しかしその間に、当時世界最強だったスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に破れるという番狂わせが起こったため、日本攻略の野望は消え去りました。 ⑤ 文学: 中世ヨーロ