◯西方への領土拡大(1783年〜1890年):
アメリカは、独立後から西部への領土拡大を進め、現在の50州の領土へと拡大していきました。この運動を「西部開拓」や「西漸(せいぜん)運動」と呼び、合衆国の人々は「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」をスローガンとして、先住民掃討を正当化しました。当時のアメリカは人口増加による土地不足に悩まされており、西部開拓は「神からの思し召し」であると主張しました。独立当時1200万人いた先住民が、西洋人が持ち込んだ伝染病と武力攻撃などにより、現在200万人にまで激減していきました。
アメリカは、1783年にイギリスから領土を割譲したり、1803年にフランスから領土を購入したりするなど、次々に領土を拡大していきました。また、テキサス併合やメキシコ・アメリカ戦争(米墨戦争)を経て、メキシコ領であったカリフォルニアからテキサスへ至る領域を獲得しました。
1890年には開拓者たちが西海岸カリフォルニアに到達し、「フロンティアの消滅」が宣言されました。一方、アメリカの西方への領土拡大は、新しい獲得地への奴隷制の導入をめぐって南部と北部の間に強い対立を生み出しました。
◯帝国主義時代(1890年〜1918年):
西部開拓時代の終結によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求めました。1889年にパン・アメリカ会議を開催し、アメリカの武力を背景としたラテンアメリカ市場の囲い込みを始めました。
アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していきました。1898年にハワイ王国をなし崩し的に併合し、領土を太平洋上まで拡大しました。さらに同年、スペイン領キューバの独立戦争に便乗し、軍船「メイン号」爆発事件を口実に、スペインとの間で米西戦争を起こしました。この開戦には、当時普及していた新聞が大きな役割を果たしました。すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行い、新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例となりました。米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用しました。
米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して中小国を植民地(バナナ共和国)とし、キューバを保護国に、プエルトリコやフィリピン、グアム島などを植民地化しました。さらに、西欧列強と日本によって中国分割が進もうとしているときに、1899年と1900年に清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への進出を狙いました。
カリブ海地域を勢力圏にするために、これらの地域で反乱などが起こるたびに武力干渉しました(棍棒外交)。また、国内東西物流の安定を目的とした海上ルートの確保を目的に、パナマ運河建設権を買収し、2万人以上の死者と長期間の工事を経て、果ては工兵まで投入して完成させました。さらに軍事介入してコロンビアから分離独立させたパナマから運河地帯の永久租借権を獲得しました。
またこのころ、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となりました。そして強力な企業連合体や独占体が成長し、カーネギー、モルガン、ロックフェラーなどの巨大企業が誕生し、その後のアメリカの経済・政治・軍事を動かし帝国主義的拡張を押し進めていきました。
やまとこたろう
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