◯1840年~1842年にかけて アヘン戦争 が勃発しました。イギリスが武力を用いて中国にせまり、港を開かせて自由貿易に組み込んだ戦争でした。 イギリスはこの戦争に圧勝し、清に不平等条約を結ばせましたが、思いのほか貿易で利益を得ることはできませんでした。中国の港を開かせ貿易を行っているのに、思うように儲けることができなかったのです。そこでイギリスは もう1度中国に戦争を仕掛けようと企みました。
◯そんな中、1856年に アロー号事件が起こりました。広州湾に停泊中のアヘン密輸船アロー号に清朝の警察が立ち入り検査を行い、アロー号の中国人船員を逮捕したという事件でした。
イギリスはこれに抗議しました。アロー号は イギリス国旗を掲げていた のですが、イギリスは「中国が国旗を引きずりおろしたのはイギリスに対する侮辱行為だ!」と主張し、これを口実に中国へ宣戦布告したのです。しかもイギリスはフランスの ナポレオン3世 に共同出兵をもちかけました。
こうして始まったのが アロー戦争 です。強大な2国を相手に中国はなすすべもなく、英・仏軍は中国をどんどん北上していきました。清は降伏を宣言し、 天津条約 の締結を両国へ呼びかけました。
◯そして英・仏の調印使節がやってきたとき、ある事件が起こりました。清の保守派らが英・仏の使節に発砲したのです。 これは中国政府にとって予想外の出来事でした。 英仏はこれに反発し、再び軍事行動を再開することになりました。
戦争を再開した英・仏軍は、ついに当時の清の都 北京 を占領しました。北京にあった 円明園 を破壊し、清の皇帝を逃亡に追いやったのです。円明園は、清の康熙帝の時代につくられた皇帝の離宮です。 最終的に、清はアロー戦争の講和条約として 北京条約 を締結することになりました。
◯北京条約の主な内容は4つです。 1つ目は 外国公使の北京駐在 です。清の都北京には、イギリスやフランスの外交使節が常に駐在している状態になった、ということです。清は外交を担当する役所として 総理各国事務衙門 を設置することになりました。
2つ目は キリスト教布教の自由 です。これを受けて多くの宣教師が中国へやって来ることになりました。
3つ目は 開港場の増加 です。 南京 を含む合計10港の開港が行われました。さらに追加で 天津 が開港させられたことで、合計11の港が開かれることになりました。
4つ目は 九竜半島南部(香港の一部)割譲です。清はイギリスに九竜半島の南部を割譲し、領土を削られることになってしまいました。
上記以外に、中国は 賠償金の支払いを要求されました。こうして中国は、アヘン戦争のみならずアロー戦争の賠償金をも抱えることになりました。これらの賠償金はやがて税金として中国の農民たちの負担となりました。
やまとこたろう
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