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18.日英関係;20世紀日英同盟の調印から廃止まで

  1902年 ロンドンで日英同盟が調印される。 1904年 日露戦争(-1905)。英国は日本の戦争国債引受などで支援。ロンドン金融界のユダヤ資本が弱小と思われていた日本の国際を引受けてくれたのが切っ掛けとなり、日本は戦費調達ができた。 露海軍が日本船と誤認し英国商船を撃沈させたこと( ドッガーバンク事件 )から、英国内に反露感情が高まり、大英帝国の諸国を通じ露バルチック艦隊の極東への派遣を阻害。 1907年、伏見宮貞愛親王が明治天皇へのガーター勲章授与感謝のため渡英し、エドワード7世に拝謁。 1908年 東京ので日英協会が初めて会議をした。同年、グラバーが外国人として初の勲二等を受章。 1909年 三菱合資会社三菱造船所が英国からハンマーヘッドクレーンを購入。 1910年 長谷川如是閑 、(大正デモクラシー期の代表的論客)大阪朝日新聞の特派員としてロンドンに滞在。 1911年 日米通商航海条約 調印。日本が関税自主権を回復。日英通商航海条約も改正され、不平等条約が完全に解消。 1914年 第一次世界大戦( - 1918)。日本は日英同盟に基づき参戦。英国の要請により日本は国内世論の反対を押し切って地中海に巡洋艦を派遣。英軍や豪軍の戦艦を護衛し、ドイツ軍の潜水艦(Uボート)と死闘を繰り広げた。東アジアではドイツの中国に於ける租借地青島(チンタオ)を、日英両国陸軍の共闘で陥落させた。 1918年 ロシア革命。ロシア内戦で英国が日本に支援を依頼し、シベリア出兵(1925年まで)。 1919年 第一次世界大戦後の世界秩序を決め国際同盟を創設するパリ講和会議に、日本と英国がフランス・イタリア・アメリカとともに戦勝「五大国」として参加。 日本は 人種差別撤廃法案 を提案した。賛成は、フランス・イタリア・ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・ユーゴスラビア、反対は、英国・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアで、賛成多数となった。 しかし、議長国の米国ウィルソン大統領は、「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し押し切った。米国は国内に深刻な黒人公民権問題をかかえており、英国は多くの有色人植民地を持つ大英帝国の基盤を破壊するので反対した。 米英による同法案否決が、大東亜戦争の遠因となっていった。 1921年 日本・英国・アメリカ・フランスの四カ国条約締

17.十九世紀の日英関係

1808年 フェートン号事件 。ナポレオン戦争中、英国船が長崎出島のオランダ商館を襲撃しました。幕府の対英警戒態勢の不備が明らかになりました。 1825年 江戸幕府は、英国軍艦を警戒し、あらゆる外国船を砲撃・追い返そうとして、異国船打払令を発布しました。その一方で、この頃から清に輸入された英国の物産が現地の商人によって日本に再輸出されたケースも確認されています。 1840年 アヘン戦争 。英国(当時の世界の覇権国)が清に勝利し香港を獲得した事を知り、英国など列強の武力に対抗し難いことを知った幕府は、異国船打払令を撤廃しました。 1854年 クリミア戦争 。英国海軍は、ロシア海軍の艦船を拿捕することを名目に、長崎に侵入し、日本の中立を侵犯しました。その結果、 日英和親条約 が調印されました。 不平等条約 。 1858年 第二次アヘン戦争 。英国が再び、日本の中立を侵犯し、 日英修好通商条約 が徳川幕府との間で調印されました。 関税自主権の制限や治外法権承認など、日本に不利な不平等条約が継続・強化されました。同年、長崎に日本初の公的な英語教育機関が設立されました。 1858年 英国女王が、木造蒸気船を幕府に贈呈しました。 1859年 初代駐日総領事により江戸 高輪 に英国総領事館が開設されました。 1859年 英国商会の代理人として グラバー が長崎へ来日、以後幕末・明治の日本の政財界と深く関わりました。 1862年 生麦事件 が発生。薩摩藩士により英国人が殺害され、その後も日本国内で英国人襲撃が相次ぎました。 1863年 長州五傑(井上聞多、伊藤俊輔など)が藩命として英国へ留学。 薩英戦争 、前年の生麦事件の報復として英国海軍が鹿児島を砲撃し、薩摩軍が反撃しました。この時の戦闘を通じ、英国側は薩摩側の能力を高く評価し、以後、英国と薩摩の関係は良くなっていきました。  1864年 下関戦争 。攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復で英国海軍が仏国海軍などと共に下関の砲台を占拠しました。帰国した井上と伊藤は開戦を止められず、事態収拾に奔走しました。 1868年 明治維新 。英国公使は戊辰戦争で中立を保ち、幕府支援に傾く仏国を牽制して、実質的に明治新政府を支援しました。 1870年 大日本帝国海軍 が創設されました。以後、英国海軍を模範とした組織整備を進めまし

16−3.日英同盟は何故締結されたのか?その結果どうなったのか?

日本は明治維新以来、欧米列強に並ぶ強国になるために国力を高めていきました。 日清戦争の勝利でアジアナンバー1になった日本に立ちはだかった壁がロシア帝国です。このロシアを共通の敵として結ばれた日英同盟は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。 ①世界規模での英国(シーパワー)とロシア(ランドパワー)の対立: 19世紀のロシアは年中使用できる凍らない港(不凍港)を確保するため、領土を南に広げようとしていました。そのたびに英国との対立を引き起こしました。黒海方面のクリミア戦争や中央アジアでの対立などがその代表です。 中国でも清の弱体化で英国とロシアの対立が目立ち始めました。    ② 義和団事件の発生: 日本はロシア南下を阻止するため朝鮮の独立と近代化が必要と考え、清国の属国であった朝鮮の独立と近代化を求めました。それを拒否する清国(日本の5倍のGDP)と日本は戦い勝利しました。日清戦争の敗北で弱いことが発覚してしまった清国は、欧米列強によって半植民地化されていきました。そのことに反発した民衆が義和団を中心に外国を追い出す運動を始めました(義和団事件)。  日本とロシアを主力とする列強の連合軍はこの動きを鎮圧し、北京に入城しました。  戦いの後、連合軍は引き上げましたがロシア軍だけは満州にとどまり続けました。   ③ロシアの脅威: 日清戦争勝利の結果、日本は清国から遼東半島・台湾・澎湖諸島などを得ました。 ところが、遼東半島を前から狙っていたロシアは面白くありません。フランス・ドイツを誘って、日本に遼東半島を返還するようプレッシャーをかけました(三国干渉)。日本はこの圧力に屈し、遼東半島を返還しました。 すると、ロシアは遼東半島の重要都市である旅順と大連を租借し、満州の支配を固めてしまいました。  ④ロシアの満州支配に対する日本政府の反応 日本政府内ではロシアに対してどう対応するか、意見が二つに分かれました。  一つ目はロシアと戦っても勝ち目がないから、ロシアに満州を譲り、日本は朝鮮半島を確保するべきだという考えです(満韓交換論)。 二つ目は、イギリスと同盟を結んでロシアに対抗するべきだという考えです(日英同盟論)。 首相の桂太郎や外相の小村寿太郎は日英同盟を主張し、反対する伊藤博文らを抑えてイギリスと本格的に交渉を始めました。 ⑤英国の考え:  英国は日清戦争に勝

16−2−3.大英帝国の植民地拡大;アフリカ、オセアニア、ドミニオン誕生

④アフリカ進出: 英国は、 ナポレオン戦争 時に南アフリカのオランダ領ケープ植民地がフランスに占領されることを恐れてケープ植民地を占領し、ナポレオン戦争終結後も結局オランダに返還しませんでした。しかし、ケープに入植していたオランダ系住民ボーア人は、英国の支配を嫌って北方への大移動を行い、ナタール共和国を建国しました。これが英国に滅ぼされると川の上流にトランスバール共和国とオレンジ自由国を樹立しました。英国はこれらの国家を支配下に置こうとしましたが失敗し、両国の独立を承認しました。 一方、ケープ植民地に対しては植民地議会を設立し、白人自治植民地としてある程度自由を認める政策を採り、支配を固めました。政情不安の起きたトランスヴァール共和国を併合したものの、第一次ボーア戦争によって敗北し再独立を認めました。 その北に広がる内陸部に進出を開始し、この地方を植民地化し、1894年には現在のジンバブエとザンビアに当たる地域にローデシア植民地を建設しました。 さらにトランスヴァール共和国のヨハネスブルグで金鉱が発見されると、ボーア人がドイツと結ぶ事を恐れた英国は、第2次ボーア戦争でボーア人国家を併合しました。1910年にはケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由州の4州を合わせて自治領南アフリカ連邦を創設しました。 北アフリカのエジプトはもともと オスマン帝国 領で、後に オスマン帝国宗主権下の半独立国となりましたが、1875年にエジプトが財政破綻を起こすと英国はスエズ運河会社の株式を取得して筆頭株主となりスエズ運河の支配権を握り、東洋と西洋を結ぶ交易ルートを手中にするとともに、エジプトに与えた膨大な借款を梃子にエジプトを事実上保護国化し、スーダンにも支配を伸ばしました。 1880年代に入るとベルギーのコンゴ川流域進出を皮切りに、西洋列強によるアフリカ内陸部の市場化が求められるようになり、1884年に ベルリン会議 が開かれて沿岸部の支配者が後背地の支配権も認められるようになりました。これによって アフリカ分割 が急速に進み、わずか30年でアフリカはほぼ完全に西洋列強によって分割されました。 英国もこの動きに乗って、この時期に東アフリカのケニア、タンザニア、西アフリカのナイジェリア、ガーナなどを次々と植民地化していきました(アフリカ縦断計画を推進)。 ⑤オセアニア進出: オ

16−2−2.大英帝国のアジア植民地拡大:インド、清国

  ③アジア植民地拡大: 英国は、1600年に東インド会社を設立して、東南アジアの香辛料貿易への食い込みを図りましたが、先行していた オランダ東インド会社 (世界最初の株式会社)との戦いに破れ敗退しました。 このため英国東インド会社は、インドに注力し、17世紀にスラトに商館を設置したのを初めにムンベイ、コルカタなどにも商館を設置していきました。インド貿易は成功を収め、これらの商館は次第に要塞化して周辺のインド諸侯を影響下におくようになっていきました。この頃フランスもインド進出を図っており、英仏のインドでの対立が深まっていきました。欧州で七年戦争(1756-1763年、実質的な第一次世界大戦)が起こると、インドでも英仏間の戦争が始まり、英国が勝利し、フランスは政治的軍事的にはインドから撤退しました。 英国は、さらにインド諸侯に対する支配を拡大していき、名目的な存在になっていた ムガール帝国 を1858年に廃し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。 英国による2世紀間のインド植民地支配は徹底的なインドの国富と人命の搾取でした。当初インドのGDPは世界の27%でしたが、独立前夜には3%でしかなく、この間45兆米ドル(約6700兆円)もの富が英国によって収奪されたと言っている学者がいます。英国を 大英帝国へと押し上げた産業革命は、インド由来の綿織物がきっかけでした。紅茶の国である英国で飲まれているアッサムティーの茶葉もインド産です。 当初、インドは綿織物・造船・金属加工など世界的に競争力のある工業国でしたが、英国により工場が打ち壊され、高関税をかけられ、英国からの輸入品に頼らなくてはならないようされてしまいました、それも高値で。英国が食糧輸出で稼ぐため、単一大規模農業をインドに強制し、不作や大災害の時もまったく援助せず膨大な数の餓死者があふれました。また、多くのインド人傭兵を採用し、アジア・アフリカの植民地拡大と維持の先兵としました。 英国統治に反対するものは容赦なく迫害、拷問、殺害しました。英国内では二大政党による民主主義が形成されていく一方、植民地では人を人とも思わない恐怖・抑圧政治を断行していたのです。ひどいダブルスタンダードではないでしょうか。 ④アヘン戦争: アメリカ独立戦争で戦費がかさみ、英国財政を圧迫していました。また 清国 との貿易が絹織