日本は明治維新以来、欧米列強に並ぶ強国になるために国力を高めていきました。 日清戦争の勝利でアジアナンバー1になった日本に立ちはだかった壁がロシア帝国です。このロシアを共通の敵として結ばれた日英同盟は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。
①世界規模での英国(シーパワー)とロシア(ランドパワー)の対立:
19世紀のロシアは年中使用できる凍らない港(不凍港)を確保するため、領土を南に広げようとしていました。そのたびに英国との対立を引き起こしました。黒海方面のクリミア戦争や中央アジアでの対立などがその代表です。
中国でも清の弱体化で英国とロシアの対立が目立ち始めました。
② 義和団事件の発生:
日本はロシア南下を阻止するため朝鮮の独立と近代化が必要と考え、清国の属国であった朝鮮の独立と近代化を求めました。それを拒否する清国(日本の5倍のGDP)と日本は戦い勝利しました。日清戦争の敗北で弱いことが発覚してしまった清国は、欧米列強によって半植民地化されていきました。そのことに反発した民衆が義和団を中心に外国を追い出す運動を始めました(義和団事件)。
日本とロシアを主力とする列強の連合軍はこの動きを鎮圧し、北京に入城しました。
戦いの後、連合軍は引き上げましたがロシア軍だけは満州にとどまり続けました。
③ロシアの脅威:
日清戦争勝利の結果、日本は清国から遼東半島・台湾・澎湖諸島などを得ました。 ところが、遼東半島を前から狙っていたロシアは面白くありません。フランス・ドイツを誘って、日本に遼東半島を返還するようプレッシャーをかけました(三国干渉)。日本はこの圧力に屈し、遼東半島を返還しました。
すると、ロシアは遼東半島の重要都市である旅順と大連を租借し、満州の支配を固めてしまいました。
④ロシアの満州支配に対する日本政府の反応
日本政府内ではロシアに対してどう対応するか、意見が二つに分かれました。
一つ目はロシアと戦っても勝ち目がないから、ロシアに満州を譲り、日本は朝鮮半島を確保するべきだという考えです(満韓交換論)。
二つ目は、イギリスと同盟を結んでロシアに対抗するべきだという考えです(日英同盟論)。
首相の桂太郎や外相の小村寿太郎は日英同盟を主張し、反対する伊藤博文らを抑えてイギリスと本格的に交渉を始めました。
⑤英国の考え:
英国は日清戦争に勝利した日本の軍事力に注目しました。世界各地に植民地を持つ英国は一国だけですべてを守ることが難しくなっていました。特に南アフリカでおきたボーア戦争に多くの戦力を割かざるを得ず、東アジアは手薄な状態にありました。英国は従来の”名誉ある孤立”を捨て、日本と手を組むメリットがあったのです。
⑥日英同盟の内容:
1902年、日本はイギリスとの間に日英同盟を結びました。主な内容は次の通りです。
・英国の中国での利権と日本の中国・韓国での利権を互いに認める。
・条約を結んでいる国の一方が戦っているときはもう一方は中立を維持する。
・ほかの国が戦いに加わった場合は、もう一方の国も参戦する。
⑦日英同盟の結果:
日露戦争で、英国は中立の立場を取りました。ロシアのバルティック艦隊が日本海に派遣された時、英国はスエズ運河通行とアジアアフリカの植民地への寄港を拒否しました。英国と近いアメリカが積極的に和平調停をしてくれたこともあり、日本勝利の内に終戦することができました。
フランスはロシアと仲が良かったのですが、フランスが参戦すると英国が日本側につくことが明らかだったので、フランスは参戦しませんでした。これにより日本は三国干渉のように複数の国から圧力を受けることを避けることができました。
やまとこたろう
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