③アジア植民地拡大:
英国は、1600年に東インド会社を設立して、東南アジアの香辛料貿易への食い込みを図りましたが、先行していたオランダ東インド会社(世界最初の株式会社)との戦いに破れ敗退しました。
このため英国東インド会社は、インドに注力し、17世紀にスラトに商館を設置したのを初めにムンベイ、コルカタなどにも商館を設置していきました。インド貿易は成功を収め、これらの商館は次第に要塞化して周辺のインド諸侯を影響下におくようになっていきました。この頃フランスもインド進出を図っており、英仏のインドでの対立が深まっていきました。欧州で七年戦争(1756-1763年、実質的な第一次世界大戦)が起こると、インドでも英仏間の戦争が始まり、英国が勝利し、フランスは政治的軍事的にはインドから撤退しました。
英国は、さらにインド諸侯に対する支配を拡大していき、名目的な存在になっていたムガール帝国を1858年に廃し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。
英国による2世紀間のインド植民地支配は徹底的なインドの国富と人命の搾取でした。当初インドのGDPは世界の27%でしたが、独立前夜には3%でしかなく、この間45兆米ドル(約6700兆円)もの富が英国によって収奪されたと言っている学者がいます。英国を大英帝国へと押し上げた産業革命は、インド由来の綿織物がきっかけでした。紅茶の国である英国で飲まれているアッサムティーの茶葉もインド産です。当初、インドは綿織物・造船・金属加工など世界的に競争力のある工業国でしたが、英国により工場が打ち壊され、高関税をかけられ、英国からの輸入品に頼らなくてはならないようされてしまいました、それも高値で。英国が食糧輸出で稼ぐため、単一大規模農業をインドに強制し、不作や大災害の時もまったく援助せず膨大な数の餓死者があふれました。また、多くのインド人傭兵を採用し、アジア・アフリカの植民地拡大と維持の先兵としました。
英国統治に反対するものは容赦なく迫害、拷問、殺害しました。英国内では二大政党による民主主義が形成されていく一方、植民地では人を人とも思わない恐怖・抑圧政治を断行していたのです。ひどいダブルスタンダードではないでしょうか。
④アヘン戦争:
アメリカ独立戦争で戦費がかさみ、英国財政を圧迫していました。また清国との貿易が絹織物や陶磁器などで大幅入超であり大量の銀が清に流出していたことも問題でした。その解決策として、英国はインドのベンガル地方で少年労働を使いアヘンを栽培し清国への密輸を始めました。清国当局の取締にも関わらず密輸量は増え続け、当局は密輸品のアヘンを投棄しました。英国は清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利することによって1842年に南京条約を締結、香港の割譲・アヘン取引合法化などの権益を得ました。アヘン戦争がきっかけとなり、清国は列強によって開国を強制され、切り取られ、半植民地状態となっていきました。
世界の海上貿易を支配し、奴隷貿易とインドの富の収奪とアヘン貿易などによる巨額の利益は、英国の植民地支配をさらに拡大していく原資となりました。そして英国は、中国の次に日本を標的としました。アヘン戦争のニュースはオランダ経由日本にも伝わり、列強の軍事力の恐ろしさを知らしめ、それに備える必要性を痛感させ、明治維新へと繋がっていくことになるのです。
やまとこたろう
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