④アフリカ進出:
英国は、ナポレオン戦争時に南アフリカのオランダ領ケープ植民地がフランスに占領されることを恐れてケープ植民地を占領し、ナポレオン戦争終結後も結局オランダに返還しませんでした。しかし、ケープに入植していたオランダ系住民ボーア人は、英国の支配を嫌って北方への大移動を行い、ナタール共和国を建国しました。これが英国に滅ぼされると川の上流にトランスバール共和国とオレンジ自由国を樹立しました。英国はこれらの国家を支配下に置こうとしましたが失敗し、両国の独立を承認しました。
一方、ケープ植民地に対しては植民地議会を設立し、白人自治植民地としてある程度自由を認める政策を採り、支配を固めました。政情不安の起きたトランスヴァール共和国を併合したものの、第一次ボーア戦争によって敗北し再独立を認めました。
その北に広がる内陸部に進出を開始し、この地方を植民地化し、1894年には現在のジンバブエとザンビアに当たる地域にローデシア植民地を建設しました。
さらにトランスヴァール共和国のヨハネスブルグで金鉱が発見されると、ボーア人がドイツと結ぶ事を恐れた英国は、第2次ボーア戦争でボーア人国家を併合しました。1910年にはケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由州の4州を合わせて自治領南アフリカ連邦を創設しました。
北アフリカのエジプトはもともとオスマン帝国領で、後にオスマン帝国宗主権下の半独立国となりましたが、1875年にエジプトが財政破綻を起こすと英国はスエズ運河会社の株式を取得して筆頭株主となりスエズ運河の支配権を握り、東洋と西洋を結ぶ交易ルートを手中にするとともに、エジプトに与えた膨大な借款を梃子にエジプトを事実上保護国化し、スーダンにも支配を伸ばしました。
1880年代に入るとベルギーのコンゴ川流域進出を皮切りに、西洋列強によるアフリカ内陸部の市場化が求められるようになり、1884年にベルリン会議が開かれて沿岸部の支配者が後背地の支配権も認められるようになりました。これによってアフリカ分割が急速に進み、わずか30年でアフリカはほぼ完全に西洋列強によって分割されました。
英国もこの動きに乗って、この時期に東アフリカのケニア、タンザニア、西アフリカのナイジェリア、ガーナなどを次々と植民地化していきました(アフリカ縦断計画を推進)。
⑤オセアニア進出:
オーストラリア大陸は、1606年にオランダ人によって発見されましたが、オランダ人が植民を行うこともなく、1770年イギリス人のジェームズ・クックが上陸して領有宣言しました。その後アメリカが独立したため、英国は流刑植民地をニューサウスウェールズに移すことを決め、流刑植民団を送り込みシドニーを創設しました。オーストラリア大陸一周航海によって大陸の全貌が明らかになり、1828年大陸全土を英領と宣言しました。内陸部への植民が進むなかで原住民アボリジニの大量虐殺がしばしば発生しました。金が発見されてゴールドラッシュが起きると、一般の移民も増え流刑はやがて廃止されました。1901年にはオーストラリア連邦が成立、自治領となりました。
ニュージーランドは、1642年にオランダ人が発見し、1840年英国が原住民マオリ族と条約を締結して植民地としました。英国はこのほかサモア、トンガ、フィジー、ソロモン諸島など南太平洋の島々を領有しました。
⑥ドミニオンの誕生:
20世紀初頭には、大英帝国の領域は過去最大となったものの、アメリカやドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていきました。こうしたなか、特に白人が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、自治領(ドミニオン)とするようになっていきまいた。
最初のドミニオンはカナダで、1867年、3つのイギリス北米植民地が連邦を組んだ際にドミニオンと称するようになりました。ついで1901年には6つの植民地が連邦を組んだオーストラリア連邦が自治領化し、1907年にはニュージーランドとニューファンドランドが、1910年には南アフリカの4植民地を連邦化した南アフリカ連邦が、それぞれ自治領化しました。
これらの自治領との連携を深めるため、1887年から開催されてきたそれまでの植民地会議を1907年に帝国会議と改称し、帝国会議に出席できる自治領は従属的なニュアンスを持つ植民地(Colony)ではなく「ドミニオン」(Dominion)と正式に称されるようになりました。
やまとこたろう
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