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15-3-1. 近世における日英の出会いを俯瞰してみます

①全体イメージ: 地球最大の土地面積と人口数を有するユーラシア大陸の中央部(ロシア・中国等)は戦乱状態が続き抑圧的で貧しい社会が続くが、周辺部(西欧・日本)は戦乱状態から離れていることも幸いし民主的で豊かな社会が栄えるというマクロ歴史観があります。 日英は、ユーラシア大陸の周辺部にあり、東西の両端から少し離れた所に位置しています。近世前半、帝国主義・産業革命・政治革命の英国と、鎖国の日本とは接触することはありませんでしたが、それぞれ独自で高度な文化・社会を構築きました。1700年頃、江戸の人口が100万人で世界1位でロンドンが2位でした。 近世後半、世界最大の植民地を有した英国が、最後に残された日本を狙い接触を始めました。日本では被植民地化の危機感から政治革命が起こり、明治維新政府が誕生することになりました。 ②七つの海を支配する大英帝国と鎖国260年の日本との出会い: 英国は、海賊船も起用し他国の貿易船を襲撃略奪し、それを防ごうとする当時世界最強のスペイン無敵艦隊を破り、植民地獲得競争の緒を開き、フランス・オランダと戦争を繰り返しました。そして、七つの海を支配し一日中太陽が沈まない所はないと豪語された大英帝国を形成していきました。 徳川幕府は、キリスト教宣教師を先兵とし、キリシタン大名と呼応したスペイン・ポルトガルによる日本植民地化を防ぐため、キリスト教を禁止し、有力大名が西洋列強と組し軍事力を高め戦国時代へ逆戻りすることを危惧した幕府は鎖国に踏み切りました。ただし、オランダを窓口として西洋の情報入手を続け、日本に漂着した英国人航海士を徳川家康の外交顧問(三浦按針)として重用しました。倭寇がバタビア(現ジャカルタ)にあるオランダのインドネシア支配の軍事拠点を1週間で攻略したことからすると日本の軍事力は当時最強クラスではなかったかと考えられます。 徳川幕府は、このような海外展開を全て禁止しました。 歴史に「もし」はありませんが、「もし」日本が鎖国せず積極海外展開が続けられていたら、アジアオセアニアの歴史はまったく違ったものになっていたのではないかと夢想したりすることもあります。 しかしその後日本は、鎖国260年の間に彼我の工業力・軍事力に圧倒的な差がついていたことを思い知ることになります。アヘン戦争で大国の清が英国に破れ列強により植民地分割されていったことを知り、強

15-2. 日本の近世について俯瞰してみましょう

①全体像: 日本の近世は、16世紀後半の安土桃山時代から18世紀後半の江戸時代幕末までの期間を指します。豊臣秀吉による天下統一、江戸幕府成立、鎖国政策実施、列強による植民地化を許さなかった260年もの平和な時代、黒船来航、幕末の動乱へと推移していきました。 ②安土桃山時代1568年〜1600年: 武力による天下統一を成し遂げた織田信長が建てた安土城と、豊臣秀吉が建てた大坂城(桃山城)にちなみ、この時代を安土桃山時代と言います。 南蛮渡来の文化や商人の力を背景に、豪華で派手好みの文化が生まれたのが特徴 です。 主力の戦闘武器は弓矢から鉄砲に一変しました。 寺院勢力が抑えられ、南蛮文化が融合し、豪華絢爛な城郭建築や絵画が栄え、茶の湯が流行し、お茶道具が重宝され、わび茶も発達しました。 織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年から、関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年までの約30年間 を指し、織田・豊臣時代(織豊政権)とも言います。 時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世(幕藩体制)にあたり、封建社会が成立・展開する時期です。 ③江戸幕府成立: 家康は1603年、 全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を朝廷から受け、江戸に幕府を開きました 。 関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、同じ官職制度のなかで豊臣秀頼と競うのを避け、いち早く豊臣政権から独立し、諸大名を指揮する武家の棟梁としての正当性を得るためでした。戦国時代への逆戻りを防ぎ平和な社会を作るために、参勤交代制度や鎖国などによって諸大名を強く統制しました。その結果、260年間にわたる平和な時代が実現しました。 ④鎖国政策実施: 鎖国政策を行った理由は、2つあります。1つは、ポルトガルとスペインによる日本植民地化を防ぐためでした。両国は、まず宣教師を送り込んでキリスト教徒を増やし、その後、キリスト教徒を異教徒の支配から救うという名目で軍隊を送り込むという方法によって、植民地獲得を行っていました。2つ目は、戦国大名が独自の海外貿易により経済力・軍事力を強化してきたのを止めさせ、幕府が海外貿易を独占するためでした。但し、布教をしないオランダから海外情報は取り続けました。 ⑤260年間の平和な時代: 長期の平和な時代が実現し、新田が開発されました。その結果、それまでの人

15−1.近世の日英;まずイギリスの近世を俯瞰しましょう

  ①全体像: イギリスの近世は、16世紀から18世紀にかけての時期を指します。 16世紀に絶対王政、17世紀にイギリス革命、18世紀に産業革命を経て、帝国主義を推進し植民地獲得競争に突き進みました。 ②16世紀絶対王政の時代: 15世紀後半にヨーク家VSランカスター家による王位継承戦争(通称:バラ戦争)がおこりました。 最終的に王位を勝ち取ったランカスター傍系の血を引くヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)がテューダー朝を創設しました。 二代目の ヘンリー8世 は、王権を強化し絶対王政を実現し、離婚を承認しないローマ・カトリック教会から分離してイギリス国教会を独立させ、自ら首長に就きました。 エリザベス1世 の時代には、 イギリス国教会という教会制度と、 東インド会社 に代表される重商主義経済体制とを両輪とした絶対王政の態勢を確立させ、 スペイン無敵艦隊を破り スペイン・ポルトガルに代わって台頭しました。 海外進出ではオランダ・フランスと覇を競い、宗教の違いからカトリック教国フランスと対立するという図式が出来上がりました。 ③17世紀イギリス革命の時代: エリザベス1世に子がいなかったためステュアート朝となりました。国王は王権神授説を掲げて議会と対立し、イギリス国教会体制を強化しようとして、カトリックと ピューリタン を弾圧しました。ピューリタンは北アメリカに移住を始めました。 国王と議会の対立は激化し、内乱が始まりました。議会軍を指導して主導権を握った クロムウェル は内乱に勝利し、国王を処刑し、一時共和政を実現しました( ピューリタン革命 )。その間、クロムウェルはカトリック勢力の排除を口実にアイルランド征服とスコットランド征服を実行し、さらに海上貿易の利権を争ってオランダとの戦争が始まりした。 クロムウェルの独裁の後、王政復古となりました。しかし、国王はカトリック復興を意図し議会と対立し、議会は国王を追放して新たに国王を迎えて、権利の宣言を認めさせ( 名誉革命 )、議会主権と国教会体制が確立しました 。 このようにめまぐるしい政治革命の時代 の背景にはジェントリ(下級地主層)の成長という社会変動がありました。 同時に英蘭戦争などを戦いながら海外展開を推進し、植民地帝国への歩みを本格化させた時代でもありました。 この頃から、アフリカ人奴隷を南北アメリカのプランテ

番外編:「世界に太平の春が訪れんことを!」 永平寺貫主様の新年の祝詞を転載します

 皆さまがご無事で令和六年甲辰 キノエタツ の新年をお迎えのことを御祝詞申し上げ、併せまして皆さまの身心安寧 アンネイ 諸縁吉祥 キチジョウ を祝祷 シュクトウ 致します。老衲 ロウノウ 、図らずも九十七度目の新年を迎えさせて頂きました。この歳ともなりますと我が身命を後進の修行僧の為に、世間の為に役立てたいと、祈るような思いで毎日を過ごしております。  しかし、役立てたいとは願いましても、世界で起きている諸問題の前では、己の無力さに恥じ入るばかりです。戦闘や紛争の中で戦闘員ばかりか無辜 ムコ の市民や子供の命までもが、余りにも軽く失われております。何故、世界中の人々が共に幸せに、安楽に暮らせる世とならないのでしょうか。平和を目指す人々が、なぜ武器に解決を求めるのでしょう。  パレスティナ問題となりますと、その歴史、民族や宗教の差違、双方に譲れない正義や信仰があり、第三者が問題の当否を裁定することは叶いません。当否の裁定は叶いませんが、阿鼻叫喚 アビキョウカン の地獄絵図と化してしまったガザ地区の惨状を思えば、戦闘という行為に対する是非善悪は明瞭です。武力による解決などあってはならないのです。  お釈迦様は、欲望こそが苦悩の根源であると看破 カンパ されました。貪欲 トンヨク は自己中心的です。願いは個人を超えて家族、地域社会、民族や国家が共有しますが、ややもすると他者の願いと対立します。    仏教は「誓願 セイガン 」を説きます。誓願は誰一人余さず、全ての人と幸せになろうと誓い願うことです。今、世界が共有すべきはこの誓願ではありますまいか。欲望の自己を超え、地域、国家、民族のエゴを超え、分かち合い、励まし合い、尽くし合い、心を一つに、共に太平の春を望む誓願に生きようではありませんか。       至祷 シトウ 至祷 (心から祈る)                     やまとこたろう ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。    ↓          ↓ にほんブログ村                

14-3.中世の日英比較。そして、未だ見ぬ次世代のあなたへ

  本年もよろしくお願いいたします。 さて、日英それぞれの中世時代を概観してきましたが、それを踏まえて両国の比較をしてみようと思います。 ①王朝の移り変わり: 英国では、王朝が武力闘争によりフランス出身のノルマン朝からプランタジネット朝、ランカスター朝、デューダ朝へと三回変わりました。その間に、国王が英国人意識を持つようになり宮廷の公用語もフランス語から英語に変わったそうです。日本では、元寇の危機と武家の権力闘争がありましたが、幸いにも万世一系の天皇制が維持されました。 ②対外戦争: 英国は、王位継承権をめぐってフランスと 百年戦争 ・バラ戦争と戦いましたが、フランス内の領土を失い、王族と貴族の対立が表面化していきました。日本は、蒙古襲来を武士・朝廷・武士・宗教界が一体となって撃退することができました。 英仏間のドーバー海峡の幅は約50kmで、軍事上の大きな障害とはならなかったようですが、朝鮮半島との間の対馬海峡の幅は約200kmで、台風も有り、日本の国防に大きな機能を発揮してきました。日本は日本海に守られているという感じがしますね、ありがたいことです。 ③政治: 英国では、戦争は王族の領土的野心や権力闘争のためであり、貴族は不承不承徴税や従軍に応じるか反発するかであり、キリスト教会は王族の恣意的な権力行使を抑制しようとしました。貴族たちは王権の制限を求め、 大憲章(マグナ=カルタ) を国王に認めさせ、さらに議会開催を認めさせました。日本では、朝廷対武士という対立は生じず、朝廷の親任のもとに武家の統領が政治を担うという政治体制が確立し、その後六百数十年続きました。 ④軍事力: 英国は、16世紀に海軍を作り17世紀に陸軍を作りましたが、軍事力は当時の海軍大国スペイン・陸軍大国に比べ貧弱だったようです。日本は、種子島に伝来した火縄銃の量産化に成功し、当時の英国と同数の火縄銃を九州の一地方国家が保有するほどまでに急成長した、という記録があります。 日本侵略を目論んでいたスペインは、宣教師から日本の軍事力を知り、先ず弱体化した明を征服し明軍も動員し、日本国内のキリシタン大名と呼応して、日本を攻略しようと考えていました。しかしその間に、当時世界最強だったスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に破れるという番狂わせが起こったため、日本攻略の野望は消え去りました。 ⑤ 文学: 中世ヨーロ