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15-2. 日本の近世について俯瞰してみましょう

①全体像:

日本の近世は、16世紀後半の安土桃山時代から18世紀後半の江戸時代幕末までの期間を指します。豊臣秀吉による天下統一、江戸幕府成立、鎖国政策実施、列強による植民地化を許さなかった260年もの平和な時代、黒船来航、幕末の動乱へと推移していきました。



②安土桃山時代1568年〜1600年:

武力による天下統一を成し遂げた織田信長が建てた安土城と、豊臣秀吉が建てた大坂城(桃山城)にちなみ、この時代を安土桃山時代と言います。 南蛮渡来の文化や商人の力を背景に、豪華で派手好みの文化が生まれたのが特徴です。 主力の戦闘武器は弓矢から鉄砲に一変しました。寺院勢力が抑えられ、南蛮文化が融合し、豪華絢爛な城郭建築や絵画が栄え、茶の湯が流行し、お茶道具が重宝され、わび茶も発達しました。


織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年から、関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年までの約30年間を指し、織田・豊臣時代(織豊政権)とも言います。 時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世(幕藩体制)にあたり、封建社会が成立・展開する時期です。



③江戸幕府成立:

家康は1603年、全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を朝廷から受け、江戸に幕府を開きました。 関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、同じ官職制度のなかで豊臣秀頼と競うのを避け、いち早く豊臣政権から独立し、諸大名を指揮する武家の棟梁としての正当性を得るためでした。戦国時代への逆戻りを防ぎ平和な社会を作るために、参勤交代制度や鎖国などによって諸大名を強く統制しました。その結果、260年間にわたる平和な時代が実現しました。



④鎖国政策実施:

鎖国政策を行った理由は、2つあります。1つは、ポルトガルとスペインによる日本植民地化を防ぐためでした。両国は、まず宣教師を送り込んでキリスト教徒を増やし、その後、キリスト教徒を異教徒の支配から救うという名目で軍隊を送り込むという方法によって、植民地獲得を行っていました。2つ目は、戦国大名が独自の海外貿易により経済力・軍事力を強化してきたのを止めさせ、幕府が海外貿易を独占するためでした。但し、布教をしないオランダから海外情報は取り続けました。



⑤260年間の平和な時代:

長期の平和な時代が実現し、新田が開発されました。その結果、それまでの人口約15百万人が江戸時代前半で約30百万人に倍増したと推定されています。と同時に、動植物資源を基礎とした経済社会が形成され、国内循環型のエコ社会がほぼ出来上がりました。単位当り収穫増を目指すために農書が広く読まれ、藩校や寺子屋や貸本屋が多く出来、識字率が男女問わず7−8割に上昇したと推定されています。 


この時代に、茶道や能楽、浮世絵、俳句、歌舞伎など、多くの芸術文化が発展し、世界の中でもユニークな文化や社会制度を築き上げ、現代の日本文化・社会の礎となったと言えます



⑥幕末の動乱:

1853年のペリー来航を機に、攘夷・開国のはざまで幕藩体制は大きく揺らぎ始めました。大老井伊直弼が朝廷の許可を得ないまま日米日本修好通商条約を締結したことで、朝廷と幕府の対立は深まりました。井伊は朝廷に味方した勢力を排除し、尊王攘夷派を弾圧しました(安政の大獄)。しかし、井伊が浪士によって暗殺されると、幕府の権威は失墜していきました。


幕府は、権威失墜をはかるため、新体制を組み、公武合体を推し進めましたが、老中が切られ益々幕府の権威は失墜していきました。政権を朝廷に返上すべきとの声が大きくなり、尊王攘夷運動は次第に雄藩による討幕運動へと変化していきました。

15代将軍慶喜は大政奉還を行いましたが、武力倒幕派は王政復古を宣言して、天皇を頂点とした新政府を樹立しました。


1868年に江戸城が新政府に無血開城され、新しい明治時代を迎えることになりました。



                 やまとこたろう


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