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15−1.近世の日英;まずイギリスの近世を俯瞰しましょう

 ①全体像:

イギリスの近世は、16世紀から18世紀にかけての時期を指します。

16世紀に絶対王政、17世紀にイギリス革命、18世紀に産業革命を経て、帝国主義を推進し植民地獲得競争に突き進みました。



②16世紀絶対王政の時代:

15世紀後半にヨーク家VSランカスター家による王位継承戦争(通称:バラ戦争)がおこりました。


最終的に王位を勝ち取ったランカスター傍系の血を引くヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)がテューダー朝を創設しました。


二代目のヘンリー8世は、王権を強化し絶対王政を実現し、離婚を承認しないローマ・カトリック教会から分離してイギリス国教会を独立させ、自ら首長に就きました。


エリザベス1世の時代には、イギリス国教会という教会制度と、東インド会社に代表される重商主義経済体制とを両輪とした絶対王政の態勢を確立させ、スペイン無敵艦隊を破りスペイン・ポルトガルに代わって台頭しました。


海外進出ではオランダ・フランスと覇を競い、宗教の違いからカトリック教国フランスと対立するという図式が出来上がりました。



③17世紀イギリス革命の時代:

エリザベス1世に子がいなかったためステュアート朝となりました。国王は王権神授説を掲げて議会と対立し、イギリス国教会体制を強化しようとして、カトリックとピューリタンを弾圧しました。ピューリタンは北アメリカに移住を始めました。


国王と議会の対立は激化し、内乱が始まりました。議会軍を指導して主導権を握ったクロムウェルは内乱に勝利し、国王を処刑し、一時共和政を実現しました(ピューリタン革命)。その間、クロムウェルはカトリック勢力の排除を口実にアイルランド征服とスコットランド征服を実行し、さらに海上貿易の利権を争ってオランダとの戦争が始まりした。


クロムウェルの独裁の後、王政復古となりました。しかし、国王はカトリック復興を意図し議会と対立し、議会は国王を追放して新たに国王を迎えて、権利の宣言を認めさせ(名誉革命)、議会主権と国教会体制が確立しました


このようにめまぐるしい政治革命の時代の背景にはジェントリ(下級地主層)の成長という社会変動がありました。


同時に英蘭戦争などを戦いながら海外展開を推進し、植民地帝国への歩みを本格化させた時代でもありました。


この頃から、アフリカ人奴隷を南北アメリカのプランテーションで労働させ、砂糖や綿花などを消費地のヨーロッパで販売するという三角貿易が始まりました。


このような政治の激変にも刺激されながら、17世紀の科学革命を主導したのがイギリスでした。まずベーコンに始まる経験論はニュートンによって自然科学として体系化され、さらに政治思想の面に応用されてホッブスなどの社会契約説を生み出しました。



④18世紀産業革命、植民地獲得:

大ブリテン王国として発展した時期です。国内政治では責任内閣制と政党政治という近代議会政治の形態が定着した時代であり、同時に経済面では綿工業での技術革新を始めとする産業革命が始まり、資本主義経済体制が成立した時代です。


対外的には、帝国主義を推進し、フランスとの激しい植民地獲得戦争に勝利して、大西洋における奴隷三角貿易で利益を上げ、広大な植民地を有する植民地帝国(第一帝国)となった時期です。反面、フランスとの植民地戦争による財政困難からアメリカ植民地への収奪を強めた結果、アメリカの独立という事態を招きました。一方のフランスではフランス革命が起こり、次のナポレオン戦争も含めイギリスも対応を余儀なくされました。


また、海外進出は新しい情報と共に多くの商品をイギリスにもたらし、コーヒーハウスなどの普及に見られる生活革命が進行した時代でもありました。


                 やまとこたろう


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