スキップしてメイン コンテンツに移動

13-2-1. キリスト教の世界観 

キリスト教の神ヤハウェは、唯一絶対神であり、全知全能の創造主です。この世の始まりに、神は6日間で天地を創造しました。人間の男は神に似せて土から造られ、女は男の肋骨から造られました。全ての生き物は、人間の食物として神が与えました。「地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう」。(『旧約聖書;創世記』) 

世界には始まりがあり、そして終りがあるとされています。最終戦争ハルマゲドンがあり、その後に最後の審判があると記されています。死者の霊も含め全ての人間が呼び出され、再臨したイエスの前に立たされ、永遠の天国か地獄かの最後の審判を受けます。ヤハウェやその一人子であるイエスを認めない者、殺人や同性愛や婚外性交をして悔い改めない者に救いはないとされているようです。(『旧約聖書;黙示録』)       

土葬がキリスト教社会で多いのは、最後の審判の影響かと思われます。最後の審判の時に肉体がなければ出廷できず、永遠の地獄が待っているだけと信じられているようです。このことから、彼らにとっての極刑は火炙り刑でした。


新旧キリスト教徒間の宗教戦争で多くのプロテスタントが火炙り刑に処されました。また、異端裁判で多くの女性たちが魔女だと決めつけられ火炙り刑に処されました。13歳で神の啓示を受け、イギリスとの百年戦争で敵と戦いフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクは、異端裁判にかけられ、「男装をしたこと」「教会を経由せず直接神に応答しうると信じたこと」という理由で、19歳で火炙り刑に処されました。


映画やテレビで見かけるゾンビは、最後の審判に呼ばれて、墓場から抜け出し歩いて行く姿のパロディーでしょうか。キリスト教徒たちが過去の奴隷貿易・植民地支配・大量虐殺を認め謝罪しない頑迷さは、最後の審判への恐怖からなのかもしれませんね。現実的に言えば、損害補償請求金額が天文学的になりかねないという恐怖の方が大きいでしょうが。


天動説の固執というのもありました。地動説を説いたコペルニクスやガリレオたちは聖書の記述に反するとして異端とされました。進化論も聖書の記述に反するとして異端とされました。現代でも米国の聖書遵守主義的な州では、進化論の教育は禁止され、博物館には数千年前の古生物と人類が同時代に生きていたという展示がされているそうです。


人類とAIの存亡をかけた戦争が激化する中で、超進化型AI少女が核爆発を引き起こすというSF映画”The Creator(創造者)”が上映されているので、観にいこうかなと思っています。


キリスト教の世界観を図式化すると、こうなるでしょうか。               神  =創造主・支配者 ・救済者 ・審判者                      

 人間=被造物・被支配者・被救済者・原罪・被告                      

  動植物=神の被造物・人間の支配物                      


このような世界観が影響したのか、世界は大きいが人間はちっぽけだ、という考えから始まり、他はどうなってもいい自分だけは何とか生き延びたい、といった考えまで様々なnegative,destructiveな考えが広がっていき、現代ではそれらが人類を大きく覆っているような観もあります。


キリスト教的視点から観ると、神の警告に反するかのように、人間は神への信仰を失い、堕落し続け、様々な邪悪な争いが地球全体で増大し続け、ハルマゲドン(最終戦争)から人類最後の日(全消去)へと『黙示録』が具現化しつつある過程ではないか、そんな感じがするのは、私だけでしょうか?


                  やまとこたろう


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

  1. キリスト教は闇が深いですね。一方でマザー・テレサのような聖人も生み出すキリスト教。結局は宗教を扱う人間によって宗教は正当化のための道具になるのだろうと感じました。

    ただし、一神教だからこそ「絶対」が生じてしまうことに、争いの根源があるのでしょう。では、なぜ一神教が広まったのか。「神のもとに平等」というメッセージが身分制でくるしむ人々に響いたということでしょう。そして、ついにはフランス革命につながり、市民が君主から主権を奪うことに成功したということなのでしょう。色々あったにせよ、ここまではキリスト教が人類の幸福に貢献していたのでしょう。科学技術の発展とキリスト教がタッグを組んでからが世界中で悲劇の始まりとなったように思いました。そして、ここ数年の科学技術の進化は加速度的です。キリスト教世界に限らず、野心的な国々の動向が心配されます。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

20.イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドのGDPの推移;西暦0年から1900年代まで

①世界主要国であるイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドについての面白いグラフを見つけました。西暦0年から1900年代までの世界主要国の GDPの推移にみるグローバル経済史の流れ です。クリックしてご覧ください。このグラフから、次のことが読み取れます。 西暦0年:アジアのインド、中国、日本のGDPが記されている。                      1500年:欧米のGDPの記載が始まった。                    1700年:インドと中国のGDPが近づき、日本とイギリスとドイツのGDPが近づいた。                           1820年:GDP1位中国、2位インドが0年から1870年まで続く。日本が停滞しイギリスとドイツが抜いた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                       1870年:日本をのぞく5カ国のGDPが近づいた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                              1913年:アメリカのGDP成長率が異常に大きい。他の5カ国の成長が鈍化。この年のGDPは、1位アメリカ、2位ドイツ、3位中国、4位イギリス、5位インド、6位日本。                               1972年:GDP1位アメリカ、2位日本、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位インド。                                   1998年:イギリス、ドイツ、日本が鈍化のまま、中国とインドが急成長。 ②このグラフに人口・国土・資源・生産性を重ねて考えてみると、時代ごとの特徴が見えます。                                   17世紀まで:インド・中国的世界(アジア的世界)  人口が多く、国土・資源が多く、生産性が低い                                18・19世紀:イギリス的世界(20世紀後半のドイツ・日本・韓国も)  人口が少なく、国土・資源が少なく、生産性が高い                     19・20世紀:

14-3.中世の日英比較。そして、未だ見ぬ次世代のあなたへ

  本年もよろしくお願いいたします。 さて、日英それぞれの中世時代を概観してきましたが、それを踏まえて両国の比較をしてみようと思います。 ①王朝の移り変わり: 英国では、王朝が武力闘争によりフランス出身のノルマン朝からプランタジネット朝、ランカスター朝、デューダ朝へと三回変わりました。その間に、国王が英国人意識を持つようになり宮廷の公用語もフランス語から英語に変わったそうです。日本では、元寇の危機と武家の権力闘争がありましたが、幸いにも万世一系の天皇制が維持されました。 ②対外戦争: 英国は、王位継承権をめぐってフランスと 百年戦争 ・バラ戦争と戦いましたが、フランス内の領土を失い、王族と貴族の対立が表面化していきました。日本は、蒙古襲来を武士・朝廷・武士・宗教界が一体となって撃退することができました。 英仏間のドーバー海峡の幅は約50kmで、軍事上の大きな障害とはならなかったようですが、朝鮮半島との間の対馬海峡の幅は約200kmで、台風も有り、日本の国防に大きな機能を発揮してきました。日本は日本海に守られているという感じがしますね、ありがたいことです。 ③政治: 英国では、戦争は王族の領土的野心や権力闘争のためであり、貴族は不承不承徴税や従軍に応じるか反発するかであり、キリスト教会は王族の恣意的な権力行使を抑制しようとしました。貴族たちは王権の制限を求め、 大憲章(マグナ=カルタ) を国王に認めさせ、さらに議会開催を認めさせました。日本では、朝廷対武士という対立は生じず、朝廷の親任のもとに武家の統領が政治を担うという政治体制が確立し、その後六百数十年続きました。 ④軍事力: 英国は、16世紀に海軍を作り17世紀に陸軍を作りましたが、軍事力は当時の海軍大国スペイン・陸軍大国に比べ貧弱だったようです。日本は、種子島に伝来した火縄銃の量産化に成功し、当時の英国と同数の火縄銃を九州の一地方国家が保有するほどまでに急成長した、という記録があります。 日本侵略を目論んでいたスペインは、宣教師から日本の軍事力を知り、先ず弱体化した明を征服し明軍も動員し、日本国内のキリシタン大名と呼応して、日本を攻略しようと考えていました。しかしその間に、当時世界最強だったスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に破れるという番狂わせが起こったため、日本攻略の野望は消え去りました。 ⑤ 文学: 中世ヨーロ

19−2.日米関係; 日米不平等条約

    ①江戸時代後期、日本に多くの西洋列強の船が来航するようになりました。彼らは日本の市場で自分たちの商品販売を求めており、あわよくば植民地にしてしまおうと思っていました(帝国主義)。 実際に清はアヘン戦争に負け香港をイギリスに奪われています。江戸幕府もそのことを知っており相当な危機感を持っていました。 200年以上鎖国していた日本は、西洋との交流が極めて限定的だったため、当時の軍事技術は西洋列強と比べてかなり劣っていました。 アメリカ船の砲弾はこちらに届くが、こちらの砲弾は届かないなどといった感じです。そもそも海軍を持っていなかったこともあり、アメリカの軍艦になすすべがありませんでした。 そんな圧力を受けながらの交渉だったため、植民地化という最悪の事態を避けるためには、条約を拒否するという選択はありえませんでした。 ②1854年(嘉永7年)に結ばれた日米和親条約は、アメリカの捕鯨船に対する燃料の補給など限定的な内容でしたが、1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約は、日本に強く開国を求め多くの不平等な内容を含んでいました。 江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、不平等な内容を改正するのに大変な苦労をすることになります。 日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれたのは、アメリカの領事裁判権を認めたことと片務的な協定関税率制度を採用したという点です。またその前の日米和親条約で締結された片務的最恵国待遇も日米修好通商条約で引き継がれており、これも不平等な点です。 ③領事裁判権を認めるとはどういうことかというと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けずアメリカの法律で裁くということ(治外法権が認められるということ)です。そのためアメリカ人に甘い判決が出るなどの弊害が出ました。 ④協定関税率制度というのは関税を決めるのに相手国の同意が必要で関税自主権がないということです。片務的なものですから日本が関税を変更するにはアメリカの同意が必要ですが、アメリカが関税を変更するには日本の同意が必要ではありません。 ⑤最後に片務的最恵国待遇ですが、これはアメリカ以外の国と同じような条約を結び、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件があるときは、アメリカにも自動的にその条件が当てはめられるというものです。これも関税率と同じくお互いの国が最恵国待遇を受けるのなら不平等で