スキップしてメイン コンテンツに移動

9−1−2.絶対王政批判

◯私感:

古代・近世の日英は、「しらす」政治と「うしはく」政治の典型例ですね。


12世紀、イングランド国王ヘンリー1世は、自分の権力欲、権威欲、名誉欲、征服欲、支配欲、財欲などのあらゆる欲望を

満足させることに血眼になっていたという感じですね。その欲望全開に対して

宗教的権威によって干渉してくるローマ教皇が煙たい。

なんとしても教皇の権威権力から独立したいという強い欲求から、王が癌患者に手で触れたら癌が治癒したというストーリーを作り、霊的治癒力獲得を理由にローマ教皇からの王権独立を主張したそうです。


16世紀、ヘンリー8世は、男子を産まない王妃を離婚し再婚しようとしましたが、ローマ教皇に離婚申請を

拒否されました。王は怒り、ローマ教会からの分離独立を断行し、

カトリック修道院を全て閉鎖させ、新たにイングランド国教会を自ら設立し、

自ら首長になりました。

ちなみに彼は6回離婚し、その内二人の前妻は処刑されています。


このような欲望全開の国王、誰も暴走を止められない国王に支配されていた

民衆の苦しみはいかなるものかと、深い悲しみを感じます。


フランスでは、18世紀のフランス革命前のフランス人の平均寿命が、24歳だった

という情報があります。

ベルサイユ宮殿の豪華絢爛な宮廷生活の下に、すべての民衆は飢えに苦しみ圧政に

のたうち回っていたということの証ですね。

その恨みを晴らすかのように、当時のルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、革命派によりパリでギロチンで処刑されました。

この革命騒乱の中で、70万人が殺戮されたとの情報もあります。


フランス革命の美名の下で、一体いかなる理由で誰がかくも多くの尊い人命を

奪ってしまったのでしょうか。

おそらく民衆の中に数世紀にわたり深層心理の奥底に押し込まれてきた抑圧感情が

暴発し狂気となって、無実無関係の大勢の人々を殺戮しまくるに至ったのではないか

と思います。


恨みを抱いた人々が無実無関係の人々を殺す、恨みと恨みの連鎖はとどまることが

ないようです。幼児期に虐待された者が、心的外傷を深層心理に押し込み、

ある日突然フラッシュバックしてくることがあります。

暴力的な「うしはく」抑圧統治の黒い怨念が歴史の底流を流れているような気が

する事件が、今でもフランス等で時折起るようです。


「汝、殺すなかれ」と十戒を授けられた神よ、人々の恨みの連鎖を断ち切り給え!人々の恨みと怒りを和らげ給え!


                        やまと こたろう 


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

  1. この記事はスマホ対応していないようです。横幅がスマホ画面からはみ出てしまいます。

    返信削除
    返信
    1. 長袖父さん すみませんね。なかなか思う通りいかないのですが、努力します。

      削除
    2. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
  2. 時代背景を鑑みた絶対王政の必要性についても平等に検証してみるとよいと思いました。古代ギリシアの民主政、古代ローマの共和政がありながら、なぜヨーロッパは絶対王政に傾いていったのか。

    返信削除
    返信
    1. 長袖父さん もっともな疑問ですよね。そこまで広げると?一方、通底しているものがあるような気もしますが。

      削除
    2. 世界の国家体制を分類し、その中で日本がどこに位置づけられるかという整理があると、日本のユニークさをさらに浮き彫りにできそうです。範囲が広くて調査、執筆が大変かと思いますので、勝手な読者の感想とお流しください。

      削除
  3. フランス革命の美名の下で多くの命が失われたということに違和感を持ちました。命を失った多くは民衆ではないでしょうか。人権を獲得することに目覚めた民衆はそのためには命を犠牲にすることもいとわなくなり、フランス正規軍との衝突も辞さなくなり、多くの命が失われたのではないでしょうか。民衆が王の取り巻きの貴族たちが王をそそのかしていると思い込み、貴族たちを殺したこともあるでしょうけれど、民衆の死に比べたら母数から考えて非常に少ないでしょう。既得権益を守ろうと民主化の邪魔になった僧侶たちも民衆によって殺されたかもしれませんが数の比率でいうと同様です。

    返信削除
    返信
    1. おっしゃる通り、命を失った多くは民衆だと思われます。民衆が多くの民衆の命を奪ったところが悲劇ですよね。

      削除
    2. そうでした。民衆同士の命の奪い合いもありましたね。特に酷かったのはロベスピエール政権下の恐怖政治時代でしょうか。彼の正義への盲信はヒトラーのそれに似ているように思います。

      削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

20.イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドのGDPの推移;西暦0年から1900年代まで

①世界主要国であるイギリス、ドイツ、アメリカ、日本、中国、インドについての面白いグラフを見つけました。西暦0年から1900年代までの世界主要国の GDPの推移にみるグローバル経済史の流れ です。クリックしてご覧ください。このグラフから、次のことが読み取れます。 西暦0年:アジアのインド、中国、日本のGDPが記されている。                      1500年:欧米のGDPの記載が始まった。                    1700年:インドと中国のGDPが近づき、日本とイギリスとドイツのGDPが近づいた。                           1820年:GDP1位中国、2位インドが0年から1870年まで続く。日本が停滞しイギリスとドイツが抜いた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                       1870年:日本をのぞく5カ国のGDPが近づいた。アメリカのGDP成長率が異常に大きい。                                                              1913年:アメリカのGDP成長率が異常に大きい。他の5カ国の成長が鈍化。この年のGDPは、1位アメリカ、2位ドイツ、3位中国、4位イギリス、5位インド、6位日本。                               1972年:GDP1位アメリカ、2位日本、3位中国、4位ドイツ、5位イギリス、6位インド。                                   1998年:イギリス、ドイツ、日本が鈍化のまま、中国とインドが急成長。 ②このグラフに人口・国土・資源・生産性を重ねて考えてみると、時代ごとの特徴が見えます。                                   17世紀まで:インド・中国的世界(アジア的世界)  人口が多く、国土・資源が多く、生産性が低い                                18・19世紀:イギリス的世界(20世紀後半のドイツ・日本・韓国も)  人口が少なく、国土・資源が少なく、生産性が高い                     19・20世紀:

14-3.中世の日英比較。そして、未だ見ぬ次世代のあなたへ

  本年もよろしくお願いいたします。 さて、日英それぞれの中世時代を概観してきましたが、それを踏まえて両国の比較をしてみようと思います。 ①王朝の移り変わり: 英国では、王朝が武力闘争によりフランス出身のノルマン朝からプランタジネット朝、ランカスター朝、デューダ朝へと三回変わりました。その間に、国王が英国人意識を持つようになり宮廷の公用語もフランス語から英語に変わったそうです。日本では、元寇の危機と武家の権力闘争がありましたが、幸いにも万世一系の天皇制が維持されました。 ②対外戦争: 英国は、王位継承権をめぐってフランスと 百年戦争 ・バラ戦争と戦いましたが、フランス内の領土を失い、王族と貴族の対立が表面化していきました。日本は、蒙古襲来を武士・朝廷・武士・宗教界が一体となって撃退することができました。 英仏間のドーバー海峡の幅は約50kmで、軍事上の大きな障害とはならなかったようですが、朝鮮半島との間の対馬海峡の幅は約200kmで、台風も有り、日本の国防に大きな機能を発揮してきました。日本は日本海に守られているという感じがしますね、ありがたいことです。 ③政治: 英国では、戦争は王族の領土的野心や権力闘争のためであり、貴族は不承不承徴税や従軍に応じるか反発するかであり、キリスト教会は王族の恣意的な権力行使を抑制しようとしました。貴族たちは王権の制限を求め、 大憲章(マグナ=カルタ) を国王に認めさせ、さらに議会開催を認めさせました。日本では、朝廷対武士という対立は生じず、朝廷の親任のもとに武家の統領が政治を担うという政治体制が確立し、その後六百数十年続きました。 ④軍事力: 英国は、16世紀に海軍を作り17世紀に陸軍を作りましたが、軍事力は当時の海軍大国スペイン・陸軍大国に比べ貧弱だったようです。日本は、種子島に伝来した火縄銃の量産化に成功し、当時の英国と同数の火縄銃を九州の一地方国家が保有するほどまでに急成長した、という記録があります。 日本侵略を目論んでいたスペインは、宣教師から日本の軍事力を知り、先ず弱体化した明を征服し明軍も動員し、日本国内のキリシタン大名と呼応して、日本を攻略しようと考えていました。しかしその間に、当時世界最強だったスペイン無敵艦隊がイギリス艦隊に破れるという番狂わせが起こったため、日本攻略の野望は消え去りました。 ⑤ 文学: 中世ヨーロ

19−2.日米関係; 日米不平等条約

    ①江戸時代後期、日本に多くの西洋列強の船が来航するようになりました。彼らは日本の市場で自分たちの商品販売を求めており、あわよくば植民地にしてしまおうと思っていました(帝国主義)。 実際に清はアヘン戦争に負け香港をイギリスに奪われています。江戸幕府もそのことを知っており相当な危機感を持っていました。 200年以上鎖国していた日本は、西洋との交流が極めて限定的だったため、当時の軍事技術は西洋列強と比べてかなり劣っていました。 アメリカ船の砲弾はこちらに届くが、こちらの砲弾は届かないなどといった感じです。そもそも海軍を持っていなかったこともあり、アメリカの軍艦になすすべがありませんでした。 そんな圧力を受けながらの交渉だったため、植民地化という最悪の事態を避けるためには、条約を拒否するという選択はありえませんでした。 ②1854年(嘉永7年)に結ばれた日米和親条約は、アメリカの捕鯨船に対する燃料の補給など限定的な内容でしたが、1858年(安政5年)に結ばれた日米修好通商条約は、日本に強く開国を求め多くの不平等な内容を含んでいました。 江戸幕府からこの条約を引き継いだ明治政府は、不平等な内容を改正するのに大変な苦労をすることになります。 日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれたのは、アメリカの領事裁判権を認めたことと片務的な協定関税率制度を採用したという点です。またその前の日米和親条約で締結された片務的最恵国待遇も日米修好通商条約で引き継がれており、これも不平等な点です。 ③領事裁判権を認めるとはどういうことかというと、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律では裁けずアメリカの法律で裁くということ(治外法権が認められるということ)です。そのためアメリカ人に甘い判決が出るなどの弊害が出ました。 ④協定関税率制度というのは関税を決めるのに相手国の同意が必要で関税自主権がないということです。片務的なものですから日本が関税を変更するにはアメリカの同意が必要ですが、アメリカが関税を変更するには日本の同意が必要ではありません。 ⑤最後に片務的最恵国待遇ですが、これはアメリカ以外の国と同じような条約を結び、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件があるときは、アメリカにも自動的にその条件が当てはめられるというものです。これも関税率と同じくお互いの国が最恵国待遇を受けるのなら不平等で