はじめに:歴史の光と影、そして新たな視点 日本の歴史、特に戦前の時期については、「軍国主義」や「過ち」といった負の側面に光を当てる「自虐史観」が強く根付いています。もちろん、歴史には光と影の両面がありますが、光の側面、すなわち当時の指導者たちが国益を守り、国家の存亡をかけて困難な国際環境に立ち向かった「正の側面」にも目を向ける必要があります。 本ブログでは、まさに日本が国際社会によって追い詰められ、その後の運命を決定づけた一つの重要な転換点、「ワシントン軍縮会議」について、従来の視点とは異なる角度からその真実を解説します。 第一章:ワシントン体制の誕生と日本の孤立 第一次世界大戦が終結した後、国際情勢は大きく変化しました。戦勝国でありながら疲弊したイギリス、そして未曽有の経済力を背景に台頭したアメリカが、世界の覇権を争う構図です。 1921年から1922年にかけて開催されたワシントン軍縮会議は、名目上は軍備縮小と太平洋・東アジアの安定を目的としていましたが、その実態は、台頭する日本海軍の抑え込みと、中国におけるアメリカの経済的影響力拡大を意図したものでした。この会議における一連の決定こそが、日本を国際的な「崖っぷち」に立たせる結果を招いたのです。 1.不公平な戦力比「5:5:3」の決定 この会議の最も有名な決定は、主力戦艦の保有比率です。 イギリス・アメリカ:5 日本:3 日本は自国の安全保障上、アメリカに対し最低でも7割(10:7)の戦力比が必要であると主張しましたが、最終的に6割の「5:3」という比率を呑まされました。これは日本にとって心理的、そして実質的な防衛能力において大きなハンデを負わされたことを意味します。 2.太平洋での「現状維持」という名の罠 さらに重要な決定が、太平洋地域での軍事基地の現状維持(要塞化禁止)です。一見平等に見えるこの合意には、 アメリカ領のハワイ と イギリス領のシンガポール が除外されるという重大な例外規定が設けられていました。 つまり、日本はこれ以上太平洋上の防衛線を強化できない一方で、アメリカとイギリスは、既に強大な要塞を築いていたハワイやシンガポールに、戦力をいくらでも増強することが許されたのです。これは、日本を「囲い込む」ための戦略的な罠であり、極めて不公平な措置でした。 第二章:国際協定の反故と中国権益の否定...
ロシア革命とコミンテルンの世界戦略 第一次世界大戦の最中にロシアで起こったロシア革命(1917年)により、ロマノフ朝が倒れ、世界初の共産主義国家であるソビエト連邦(ソ連)が誕生しました。ソ連は、そのイデオロギーを世界中に拡大するための組織であるコミンテルン(国際共産党)を設立し、「世界革命」を目指しました。 コミンテルンは、各国に支部を作り、具体的な活動を展開しました。 日本国内への浸透: コミンテルンは、日本の皇室制度を打倒し、共産主義革命を起こすための具体的な指令を日本支部に送っていました。 対日運動の扇動: 中国の民族意識を共産主義の思想で煽り、反日運動を展開させるなど、日本に対する国際的な包囲網を築こうとしました。 「ロマノフ朝の悲劇」が示す危機感 ロシア革命において、皇帝ニコライ2世とその家族は、馬まで含めて皆殺しにされました。この事実は、共産主義革命の恐ろしさと非情さを世界に知らしめるものでした。当時の日本政府や国民には、「これを日本でもやろうとしているのではないか」という深刻な危機感が共有されていました。 実際に、アメリカを除くヨーロッパ諸国も、ソ連の誕生と共産主義のイデオロギーを「世界秩序を脅かす危険な思想」として認識していました。世界中の政府を転覆させ、富裕層を粛清し、共産主義の理想郷を建設するという彼らの主張は、当時の国際社会にとって看過できない大問題だったのです。 🌍 国際共同出兵としてのシベリア出兵 脅威に対抗するための国際的な協調 シベリア出兵は、日本単独の「勢力拡大」を目的としたものではありませんでした。ヨーロッパ諸国を含めた列強が、ロシア革命の波が自国に及ぶことを防ぎ、シベリアに残されたチェコスロバキア軍を救出するという国際的な目的のために行われた共同出兵でした。 多国籍軍の参加: 日本の他、イギリス、フランス、イタリアなどのヨーロッパ諸国も兵を送り込みました。 アメリカの参戦: 当初、共産主義を危険視していなかったアメリカは、日本の出兵を「利権拡大」と疑い横槍を入れました。しかし、イギリスの仲介もあり、最終的には日米共同出兵という形でアメリカも参加することになります。 シベリア出兵は、共産主義の拡大を食い止めようとした当時の国際社会の意思の現れであり、日本はその中で重要な役割を果たしたのです。 誤算と混乱:アメリカの態度と日本軍の戦...