一般的に、日本のシベリア出兵は「大陸への野心的な侵略」と説明されがち です。しかし、当時の国際情勢を深く掘り下げると、その実態は全く異なることがわかります。この出兵は、日本が単独で利権を拡大しようとした行動ではなく、ロシア革命後に広がり始めた共産主義の脅威から、アジアとヨーロッパの秩序を守るための、国際的な共同対応の一環だったのです。 ①なぜ日本はシベリアへ出兵したのか? 共産主義の脅威と国際社会の対応 1917年のロシア革命により、ロマノフ朝が崩壊し、世界初の共産主義国家であるソビエト連邦(ソ連)が誕生しました。共産主義は、国家や民族の枠を超え、世界中の労働者階級が団結して資本家や支配階級を打倒し、共産主義革命を起こすことを目指していました。ソ連は、その思想を世界中に広めるための組織「コミンテルン」を設立し、日本の皇室の打倒や、中国での反日運動の煽動など、日本に対しても積極的に工作活動を行っていました。 共産主義の拡大は、単なる政治思想の違いを超えた 重大な脅威 として、日本を含む多くの国々に認識されていました。特に、ロマノフ一家が虐殺された歴史を見ていた各国は、自国に同じ悲劇が起こるのではないかという強い危機感を抱いていたのです。当時、日本をはじめとする連合国は、ロシア国内に孤立していたチェコ軍団の救出を名目に、共同でシベリアへの出兵を決定しました。 ②複数の国による共同出兵 シベリア出兵が、日本単独の行動ではないことは重要な点です。イギリス、フランス、カナダ、アメリカなど、複数の国が共同で軍を派遣しました。これは、共産主義の拡大が国際社会全体の共通課題だったことを示しています。 当初、日本は軍隊の派遣に慎重でしたが、イギリスからの要請と、アメリカも共同出兵に同意したことで、 日英米共同出兵 という形で参加することになりました。これは、利権を巡る単独行動ではなく、国際的な協調体制の中で行われた行動であることを明確に物語っています。しかし、アメリカは当初の協調姿勢から一転、日本の利権拡大を警戒し、共産主義者と共謀するような動きも見せ始めました。 ③困難を極めた出兵:戦略の欠如と日本軍の犠牲 シベリア出兵は、日本にとって決して「成功」と呼べるものではありませんでした。日本の正規軍が派遣され、現地の共産主義勢力やゲリラとの戦闘が泥沼化する中で、日本軍は多く...
① 石井菊次郎、第一次世界大戦で日本の信頼を築く 第一次世界大戦中、日本は日英同盟に基づき連合国側に参戦しました。当時の国際情勢は、自国の利益のためであれば、同盟国を裏切ることも厭わないという弱肉強食の時代でした。第二次世界大戦で、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に侵攻したように、約束は紙切れ同然でした。 しかし、日本の外交官、 石井菊次郎 は、イギリスとフランスに対し、「日本は絶対に裏切らない。最後まで付き合う」と堂々と宣言しました。この言葉通り、日本は地中海でのドイツ潜水艦(Uボート)の脅威を排除するなど、連合国への貢献を果たしました。 このような日本の誠実な姿勢は、当時の国際社会で高く評価されました。そのこともあり、日本はパリ講和会議に主要国として招かれ、国際連盟の常任理事国になりました。これは、日本が国際的な信頼を勝ち取った歴史的な瞬間です。 ②アメリカの疑念と「石井・ランシング協定」 連合国が日本の行動を高く評価する一方で、アメリカは日本に対し強い不信感を抱いていました。アメリカのウィルソン大統領は、日本が第一次世界大戦の混乱に乗じて中国での権益を拡大し、最終的には中国全体を支配しようとしているのではないかと疑っていました。 このような状況の中、日米間で「 石井・ランシング協定 」が結ばれます。この協定は、日本が満州における特殊権益を維持することをアメリカが承認する代わりに、日本は中国におけるアメリカの「門戸開放、機会均等」を尊重するというものでした。 当時の日本にとって、この協定は満州での権益を国際的に認めさせるという大きな成果でした。また、アメリカにとっても日本の中国侵略への懸念が和らぐという点で、日米双方にとって利益のある合意でした。 ③協定の破棄と国際関係の転換 しかし、この協定はわずか5年でアメリカによって破棄されます。第一次世界大戦が終結すると、アメリカは日本の満州における権益を認めない方針に転換しました。この突然の態度の変化は、当時のアメリカにとって約束は「相手に守らせるもの」であり、自らは守る必要がないという考え方があったことを示唆しています。これは、国際的な信頼を築こうとした日本の外交とは対照的な姿勢です。 その後、石井菊次郎はアメリカに傾斜した原敬政権によって外交の舞台から遠ざけられてしまいます。これは、優秀な人材が正当に評価...