⑤ 誤算と膠着状態:長期戦への突入 開戦当初、ドイツやオーストリア=ハンガリー帝国は、イギリス、フランス、ロシアに挟まれる形で圧倒的に不利な状況にあると考えられていました。そのため、ドイツは短期決戦を目指し、ロシア方面には少数部隊を残して防衛を固め、主力部隊をフランスに投入して速攻でパリを陥落させるという作戦(シュリーフェン・プラン)をとります。 しかし、この作戦は多くの誤算によって裏目に出ます。ロシア軍には勝利したものの、 フランス戦線 では 機関銃 などの新兵器の性能が高すぎたため、両軍ともに攻め込むことができず、 塹壕戦による 膠着状態 に陥ってしまいます。この膠着状態は、約4年にもわたる長期戦の原因となりました。 ⑥秘密外交と中東問題の根源 長期化する戦況の中、各国は戦局を有利に進めるため、さまざまな 秘密外交 を展開しました。特にイギリスが行ったいくつかの密約は、戦後の世界、特に中東地域に深刻な影響を及ぼすことになります。 ・フサイン=マクマホン協定(1915年): イギリスは、オスマン帝国(当時のトルコ)支配下にあったアラブ人に対し、オスマン帝国に対する反乱を起こせば、戦後に アラブ人 の独立国家建設を支援すると約束しました。この約束には、現在のヨルダンやパレスチナが含まれていました。 ・バルフォア宣言(1917年): イギリスは、世界中のユダヤ人に対し、彼らが戦争資金を援助するならば、戦後にパレスチナに ユダヤ人 の民族的郷土(ナショナル・ホーム)を建設することを支持すると表明しました。 ・サイクス・ピコ協定(1916年): イギリス、フランス、ロシアの三国は、オスマン帝国の領土を戦後に分割する秘密協定を結びました。この協定では、 パレスチナを含む中東 の広範な地域を、各国が勢力圏として 分割 することが定められていました。 これらの約束は、アラブ人、ユダヤ人、そしてイギリス・フランス・ロシアの三国それぞれに対して、明らかに矛盾する内容を含んでいました。特にパレスチナの地については、アラブ人にもユダヤ人にも「与える」と同時に、イギリスとフランスが勢力圏として分割するという、文字通りの「口先だけの調子の良い約束」だったのです。 この 矛盾した秘密外交 こそが、現在に至るまで続く パレスチナを巡る中東問題の根源 を形成したと言えるでしょう...
第一次世界大戦を簡潔に表現するならば、 それは 白人列強による植民地争奪戦の最終局面 と言えるでしょう。 この戦争に至るまでの国際情勢を詳しく見ていきましょう。 ①産業革命と植民地拡大の競争 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は産業革命を背景に、地球規模での植民地獲得競争を繰り広げていました。イギリスやフランスは、早期に産業革命を達成し、広大な植民地帝国を築き上げていました。一方、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアといった後発の国々は、植民地獲得に出遅れていました。 しかし、この時期にドイツは急速な工業化を遂げ、「世界の工場」と呼ばれるほどの経済力をつけるに至ります。経済力の増大は、当然ながら国際社会における影響力の拡大を求める声へとつながり、ドイツはより多くの植民地、ひいては勢力圏を求めるようになりました。 ②アフリカ分割と列強同士の争い 列強が海外に目を向けた頃には、日本と中国を除いて、東アジアにおける植民地支配はほぼ完了していました。そこで、ヨーロッパ各国が次なる目標としたのがアフリカ大陸です。アフリカ分割競争は激化し、わずかな期間で大陸のほとんどが列強によって支配されてしまいました。 そして、アフリカ大陸にも「取り尽くす場所」がなくなると、今度は白人国家同士の醜い争いが表面化し始めます。これが、第一次世界大戦へとつながる直接的な引き金の一つとなります。 ③三B政策と三国同盟・三国協商の形成 第一次世界大戦勃発の大きな要因となったのは、ドイツの推進した**3B政策(ベルリン、ビザンチウム、バグダッドを結ぶ鉄道建設構想)**です。この政策は、ドイツがオーストリア=ハンガリー帝国を経由して中東まで鉄道網を延伸しようとするものでした。 このドイツの動きに対し、ロシアは南下政策の妨げとなると危機感を抱きました。また、イギリスはスエズ運河の権益が脅かされること、さらに鉄道がインドに到達することでその支配が危うくなる可能性を懸念し、看過できませんでした。 こうして、利害が一致したイギリス、フランス、ロシアは 三国協商 を結び、ドイツに対抗する姿勢を明確にしました。これに対しドイツは、同じく植民地獲得に出遅れていたオーストリア=ハンガリー帝国、イタリアと 三国同盟 を結び、勢力均衡を図りました。 ④サラエボ事件と大戦勃発 オスマン帝...