スキップしてメイン コンテンツに移動

39.中国近代化の挫折 〜辛亥革命、中華民国、中華人民共和国〜

 今回は1911年に起こった辛亥革命シンガイカクメイと、その後に続いた中華民国の時代について考察します。

辛亥革命と日本の期待

1910年の韓国併合の翌年に発生した辛亥革命は、清朝の帝政を打倒し、共和制国家である中華民国の成立を促しました。日露戦争で日本がロシアから満州の権益を清国に返還するなど、当時の日本と清国との関係は良好でした。清国では、明治維新によって驚異的な速さで近代化を遂げ、ロシアを打ち破るまでに成長した日本への留学が盛んに推奨されていました。日本への留学は高級官僚への必須条件となるほどで、多くの中国人留学生が日本の進んだ制度や社会を目の当たりにしました。

しかし、この日本留学は、皮肉にも清朝の寿命を縮める一因となります。孫文をはじめとする留学生たちは、日本と清国の間の圧倒的な国力の差に愕然としました。そして、「このままでは清国は滅びる。日本のような近代化を達成するためには、我々が立ち上がり、新しい国家体制を築くしかない」と考えるようになります。彼らのこの思いが、辛亥革命の原動力の一つとなったのです。

日本にとって、辛亥革命による共和制への移行は、好ましい展開でした。中国が近代化し、強力な国家となることは、日本の安全保障上も望ましいことだったからです。


袁世凱の死と群雄割拠の時代

しかし、革命後の道のりは決して平坦ではありませんでした。辛亥革命を主導した孫文の後を継いだ袁世凱エンセイガイが1916年に死去すると、中国大陸は混乱に陥ります。各地の有力者たちがそれぞれ「自分が真の後継者だ」と主張し、内輪揉めを始め、あたかも日本の戦国時代のような群雄割拠の状態となりました。中華民国という一つの国の中に、複数の勢力が「我々こそが正統な政府である」と主張し、争い合う事態となったのです。


コミンテルンの介入と国共合作

この中国の混乱に目をつけたのが、ソ連が世界革命を目指して設立した国際組織、コミンテルンでした。コミンテルンの工作員たちは、中国国民党に対し、武器や資金の援助をちらつかせながら、その内部に深く浸透していきました。その結果、蒋介石率いる中国国民党は、コミンテルンの援助を受けながら中国大陸の統一を進めることになります。


中国共産党の台頭と日中戦争の画策

しかし、中国共産党の最終目標は、中国国内での社会主義革命の達成であり、そのためには中国国民党が強大になることは望ましくありませんでした。そこで共産党は、国民党の力を弱体化させるため、国民党と日本軍との衝突を画策します。

例えば、地域によっては日本軍と国民党軍が平和裏に共存し、それぞれの地域の安全を維持しているような状況がありました。しかし、共産党の工作員は、そうした平穏な関係を崩すため、両軍の衝突のきっかけとなるような策略を巡らせました。様々な共産党による画策の結果として引き起こされたのが、いわゆる日華事変(日中戦争)なのです。

さらに、共産党は戦争を長期化させるため、狡猾な手段を用いました。日本との間で和平交渉が進みそうになるたびに、中国国内でテロ事件を起こし、中国人を爆殺。その罪を日本軍になすりつけることで、和平への道を閉ざし、戦争の長期化を図ったのです。

最終的に、中国共産党は、日中戦争の混乱に乗じて勢力を拡大し、中国国民党を台湾へと追いやり、1949年には中華人民共和国という社会主義国家を樹立することに成功しました。


毛沢東の言葉と近代化の挫折

後に毛沢東は、「日本軍のおかげで、国民党を弱体化させ、国民党に勝利することができた。中華人民共和国誕生は日本軍のおかげだ」と語ったとされています。中国が近代化し、日本と協力していけるのではないかという希望があったにもかかわらず、中国共産党の画策によってその道は閉ざされてしまいました。そして現在に至るまで、中国の実権は共産党が握り続けているのです。

本来であれば、近代化の道を歩み始めた中国と日本が協力し、アジアの安定と発展に貢献できたかもしれません。しかし、イデオロギーと権力闘争に突き動かされた中国共産党の策略が、中国の近代化の歩みを大きく歪め、日中関係にも長期的な禍根を残したことは、日本の歴史を語る上で避けて通れない事実と言えるでしょう。


                   やまとこたろう



                               

ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

満州国の発展:統計が語る「正の遺産」と理念の検証 53−3

1. 歴史の「光」に焦点を当てる 満州国(1932年~1945年)と聞くと、多くの人は、日本の軍事的関与や、歴史の「負の側面」を連想するかもしれません。確かに、その樹立過程と統治の実態には様々な論点が存在します。 しかし、その影に隠されがちなもう一つの事実があります。それは、満州国が、混乱した軍閥支配から脱却し、 アジアの未来を見据えた驚異的な速度で近代化を達成した、大規模な国家建設プロジェクト であったという点です。 本稿では、当時の中国大陸では類を見ない規模のプロジェクトであった満州国の発展を、感情論ではなく、 具体的な統計データ で検証します。計画経済による 産業の飛躍 、 インフラの劇的拡大 、そして 多民族共存の理念 という「正の遺産」に焦点を当てて迫ります。 2. 驚異的な飛躍:経済とインフラのデータが語る事実 満州国政府は、天然資源を活用した重工業化を推進し、後の中国東北部(東三省)の経済基盤を築きました。その発展は、当時の世界でも稀に見るものでした。 A-1. 計画経済が生んだ「アジアの奇跡」 満州国は、五カ年計画などの計画経済を通じて工業生産の急速な拡大を図りました。 1930年代を通じて、満州国の工業生産額は、 年平均約10%という驚異的な成長率を維持しました。これは当時の世界経済において非常に稀な高成長であり、「計画的な産業開発」が実を結んだ ことを示す強力な裏付けです。 A-2. 鉄鋼生産の頂点 重化学工業の中核を担ったのは、鞍山 アンザン 製鉄所(満州製鉄)です。 鞍山製鉄所 を中心とした粗鋼生産は、ピーク時に 年間 約200万トン に達しました。これは当時の日本の総生産量には及ばないものの 、 中国大陸においては圧倒的な規模 を誇り、満州を アジア有数の重工業地帯 へと変貌させました。 この基盤は 、戦後の中国東北部の工業復興においても重要な役割を果たしました。 A-3. 国土を結ぶ大動脈:満鉄の役割 南満州鉄道(満鉄)は、単なる鉄道会社ではなく、満州経済開発の心臓部であり、「満州国の中の満州国」とも呼ばれました。 約15年という短期間で鉄道総延長は 約11,500kmへとほぼ倍増 しました。この緻密で広大な鉄道網の整備は、資源輸送と都市間連携を可能にし、 国家建設のエンジン としての満鉄の役割の大きさを物語っています。        ...

34.日露戦争での日本勝利への世界の反応 

日本の勝利への世界の反応などをまとめてみます。 ①インド初代首相ネルー: 「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩きつぶされると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかなわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、日本が勝ったのだ。 私は、自分たちだって決意と努力次第ではやれないはずはないと思うようになった。そのことが、今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは、日本なのだ。」 ②中華民国建国孫文: 「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くにいたり、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた。」 ③英国領ビルマの初代植民地首相バ・モウ: 「最初のアジアの目覚めは、日本のロシアに対する勝利に始まり、この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けだった。 ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。 日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の州発点と呼べるものであった。」 ④トルコ皇帝: 「われわれは、日本人の成功を衷心から喜ばなくてはならない。 ロシア人に対する日本人の勝利は、すなわちわれわれ有色人種の勝利である。 国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきではない。」 ④ロンドンタイムズ(新聞記事): 「日本海軍の目標は、単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。これを撃滅することだった。そして、決意したことを成し遂げたのだ。 その理由は、軍艦にも砲にも、乗組員の熟練度にも、戦術の巧拙にも求められない。 精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や、あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。対馬海峡の勝利は、武士道によってもたらされたものである。」 ⑤アフリカ系米国人W.E.B.デュボイス: 「有色人種が先天...

満洲国の発展:五族協和と王道教育 53-4

3. 五族協和と王道教育 🎌 3-1. 多民族共存の試み:「五族協和」 満州国の基本理念は、「 五族協和 」と「 王道楽土 」でした。これは、人種平等を原則とし、満州人、漢人、日本人、朝鮮人、蒙古人の多民族間の協調と共存を目指し、当時の世界では先進的な試みでした。 民族構成: 満州人、漢人、日本人、朝鮮人、蒙古人、白系ロシア人 多言語の尊重: 主要な公文書や標識には、日本語、中国語、モンゴル語などが併記され、多民族国家としての統治が形式上は謳われました。 3-2. 社会基盤の近代化 漢人の軍閥時代には教育機会が極めて限られていましたが、 満州国では教育と公衆衛生の近代化が図られました。 王道教育の普及: 各民族の子供たちに教育の機会を与えるため、小学校の設立が積極的に行われました。 人材育成: 五族協和の理念を体現するエリート育成機関として 建国大学 が設立され、民族や階級を問わず、広く人材が登用されました。 公衆衛生の改善: 満鉄病院を筆頭に近代的医療が導入され、衛生状態の悪かった地域で伝染病対策が進みました。 4. まとめ 満州国建国後の施策は、 工業生産額の年平均約10%成長 、 鉄道総延長の倍増 といった数値に裏付けられるように、経済的な繁栄と社会の近代化を目指した、大規模な国家建設でした。満州国時代に築かれた産業基盤は、現代の中国東北部(旧満州地域)の経済、ひいては新中国建国初期の経済発展に貢献する大きな遺産を残しました。             やまとこたろう ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。    ↓          ↓ にほんブログ村