今回は1911年に起こった辛亥革命シンガイカクメイと、その後に続いた中華民国の時代について考察します。
辛亥革命と日本の期待
1910年の韓国併合の翌年に発生した辛亥革命は、清朝の帝政を打倒し、共和制国家である中華民国の成立を促しました。日露戦争で日本がロシアから満州の権益を清国に返還するなど、当時の日本と清国との関係は良好でした。清国では、明治維新によって驚異的な速さで近代化を遂げ、ロシアを打ち破るまでに成長した日本への留学が盛んに推奨されていました。日本への留学は高級官僚への必須条件となるほどで、多くの中国人留学生が日本の進んだ制度や社会を目の当たりにしました。
しかし、この日本留学は、皮肉にも清朝の寿命を縮める一因となります。孫文をはじめとする留学生たちは、日本と清国の間の圧倒的な国力の差に愕然としました。そして、「このままでは清国は滅びる。日本のような近代化を達成するためには、我々が立ち上がり、新しい国家体制を築くしかない」と考えるようになります。彼らのこの思いが、辛亥革命の原動力の一つとなったのです。
日本にとって、辛亥革命による共和制への移行は、好ましい展開でした。中国が近代化し、強力な国家となることは、日本の安全保障上も望ましいことだったからです。
袁世凱の死と群雄割拠の時代
しかし、革命後の道のりは決して平坦ではありませんでした。辛亥革命を主導した孫文の後を継いだ袁世凱エンセイガイが1916年に死去すると、中国大陸は混乱に陥ります。各地の有力者たちがそれぞれ「自分が真の後継者だ」と主張し、内輪揉めを始め、あたかも日本の戦国時代のような群雄割拠の状態となりました。中華民国という一つの国の中に、複数の勢力が「我々こそが正統な政府である」と主張し、争い合う事態となったのです。
コミンテルンの介入と国共合作
この中国の混乱に目をつけたのが、ソ連が世界革命を目指して設立した国際組織、コミンテルンでした。コミンテルンの工作員たちは、中国国民党に対し、武器や資金の援助をちらつかせながら、その内部に深く浸透していきました。その結果、蒋介石率いる中国国民党は、コミンテルンの援助を受けながら中国大陸の統一を進めることになります。
中国共産党の台頭と日中戦争の画策
しかし、中国共産党の最終目標は、中国国内での社会主義革命の達成であり、そのためには中国国民党が強大になることは望ましくありませんでした。そこで共産党は、国民党の力を弱体化させるため、国民党と日本軍との衝突を画策します。
例えば、地域によっては日本軍と国民党軍が平和裏に共存し、それぞれの地域の安全を維持しているような状況がありました。しかし、共産党の工作員は、そうした平穏な関係を崩すため、両軍の衝突のきっかけとなるような策略を巡らせました。様々な共産党による画策の結果として引き起こされたのが、いわゆる日華事変(日中戦争)なのです。
さらに、共産党は戦争を長期化させるため、狡猾な手段を用いました。日本との間で和平交渉が進みそうになるたびに、中国国内でテロ事件を起こし、中国人を爆殺。その罪を日本軍になすりつけることで、和平への道を閉ざし、戦争の長期化を図ったのです。
最終的に、中国共産党は、日中戦争の混乱に乗じて勢力を拡大し、中国国民党を台湾へと追いやり、1949年には中華人民共和国という社会主義国家を樹立することに成功しました。
毛沢東の言葉と近代化の挫折
後に毛沢東は、「日本軍のおかげで、国民党を弱体化させ、国民党に勝利することができた。中華人民共和国誕生は日本軍のおかげだ」と語ったとされています。中国が近代化し、日本と協力していけるのではないかという希望があったにもかかわらず、中国共産党の画策によってその道は閉ざされてしまいました。そして現在に至るまで、中国の実権は共産党が握り続けているのです。
本来であれば、近代化の道を歩み始めた中国と日本が協力し、アジアの安定と発展に貢献できたかもしれません。しかし、イデオロギーと権力闘争に突き動かされた中国共産党の策略が、中国の近代化の歩みを大きく歪め、日中関係にも長期的な禍根を残したことは、日本の歴史を語る上で避けて通れない事実と言えるでしょう。
やまとこたろう
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