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「大東亜会議」の出席者の言葉:中華民国、満州国、タイ王国 58-2

 4. 汪兆銘(中華民国・南京国民政府行政院長)

辛亥革命以来、孫文の側近として鍛え上げられた稀代の雄弁家である汪兆銘は、自らの政治思想や「大アジア主義」への傾倒を象徴する力強い演説を行いました。

  • 最も有名なフレーズ:「同生共死」(生を同うし死を共にする) 汪兆銘は、南京国民政府の立場と日本への協力を最も端的に表す言葉として、歴史に深く刻まれるフレーズを残しました。
    「大東亜戦争の完遂に向けて、我が中華民国は日本と『同生共死』の精神をもって進むものである」

    • 【背景と意図】 この言葉は、単なる同盟関係を超えた運命共同体としての覚悟を示したものです。欧米列強による中国分割や不平等条約に苦しんできた歴史を打破し、アジアの自立を勝ち取るためには、中国と日本が文字通り運命を共にしなければならないという、彼の「平和救国」の論理が凝縮されていました。

  • 孫文の「大アジア主義」の継承: 汪兆銘は演説の中で、自身の精神的指導者である孫文が1924年に神戸で行った有名な「大アジア主義」の講演を引き合いに出しました。
    「大東亜会議の開催と『大東亜共同宣言』の採択こそは、我が指導者・孫文先生がかつて望んでやまなかった『大アジア主義』の理想が、今や現実のものとして結実した瞬間である」

    • 【背景と意図】 自身こそが孫文の正統な後継者であるという自負を示すとともに、重慶の蒋介石政権が米英の支援を受けて抗戦を続けていることに対し、「それこそがアジアへの裏切りであり、自分たちこそがアジアの解放という大義に生きている」という強い主張が込められていました。


5. 張景恵(満洲国国務総理大臣)

満洲国の代表として出席した張景恵は、五族協和(日・満・漢・蒙・朝の融和)を掲げる満洲国の立場から、新秩序の建設と道義の大切さを実直に語りました。

「我が満洲国は建国以来、道義に基づき、諸民族が手を取り合う理想郷を目指してきました。この大東亜会議こそ、その理想を全アジアへと広げるための、歴史上かつてない聖なる集まりであります」

「私たちは単に武力で団結するのではなく、東洋古来の精神である『王道楽土』の理念のもとに結ばれています。欧米の物質的・功利的な支配を排し、精神的な道義によって大東亜の平和を確立するため、満洲国は総力を挙げて貢献いたします」


6. ワンワイタヤーコーン(タイ王国首席代表・親王)

当時、独立国としての立場を維持しつつ日本と同盟関係にあったタイからは、ピブーン首相の代理(名代)として、外交手腕に優れたワンワイタヤーコーン親王が出席しました。彼は主権の尊重を前提としたアジアの協調を、冷静かつ格調高く訴えました。

「東アジアの諸民族が、それぞれの独自の文化と伝統、そして何よりも『主権と独立』を互いに尊重し合いながら結合すること。これこそが、我がタイ王国が強く望んできたことであります」

「私たちは、今回の共同宣言に掲げられた理念を心から支持します。大東亜の繁栄は、一国の覇権によってもたらされるものではなく、すべての国が対等な友邦として協力し合うことによって初めて達成されるものと確信しております」


                  やまとこたろう


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