第4章:魂に刻まれた絆 —— パラオ、台湾に見る真の信頼関係
1. パラオ:ペリリュー島に語り継がれる武士道
パラオの人々が今も日本を深く敬愛している大きな理由は、戦時中の日本軍の振る舞いと、命を懸けて育まれた絆にあります。
1944年9月、太平洋戦争屈指の激戦地となったペリリュー島。アメリカ軍は「3日で落とせる」と豪語して襲来しましたが、中川州男(くにお)大佐率いる日本軍第14師団歩兵第2連隊は、島に張り巡らせた約500箇所の洞窟陣地を駆使し、実に70日以上にわたる凄絶な持久戦を展開しました。この戦いに先立ち、中川大佐が何よりも最優先したのが「島民の安全確保」でした。島民を絶対に戦火に巻き込んではならないと、事前に民間人をすべて安全なパラオ本島などへ徹底して避難させたのです。
避難の直前、長年日本兵と家族のように暮らしてきた島民の若者たちが「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と涙ながらに願い出ました。しかしその時、中川大佐は「帝国軍人が貴様らのような土人と一緒に戦えるか!」と、烈火のごとく怒り、彼らを冷たく突き放したのです。 島民たちは「日本の兵隊さんは自分たちを仲間だと思ってくれていなかったのか」と深いショックを受け、失意のまま船に乗り込みました。
しかし船が島を離れた直後、米軍の大艦隊による猛烈な艦砲射撃がペリリュー島を襲い、島は見渡す限りの火の海へと変わりました。その地獄絵図を目にした時、島民たちは初めて中川大佐の「真意」を悟り、涙を流しました。日本兵たちは、自分たちが生きては帰れぬ玉砕の運命にあることを知っていたからこそ、愛する島民たちを巻き込まないために、あえて悪者となって彼らを突き放し、命を救ったのです。
結果として、民間人の死傷者は一人のみ(避難を拒み島に残ったとされる少年)で、多くの島民の命が守られました。戦後、島に戻った人々は、自らは飢えと戦いながらも島を守って散っていった1万名を超える日本兵の遺体を涙ながらに埋葬し、その雄姿を称える歌(ペリリュー島守備隊の歌)を作って今も歌い継いでいます。
この地を訪れた元米太平洋艦隊司令長官のC・ニミッツ元帥は、日本の勇戦を讃え、ペリリュー島に「祖国のために一命を捧げた日本の英霊は、この島を訪れる旅人によって永に語り継がれるであろう」という詩碑を建てました。
パラオの国旗(青地に黄色の円)の由来には諸説ありますが、現地では「日本の日の丸への敬意を込めてデザインされた」と広く語り継がれています。太平洋を表す青地の中で、あえて中心から少しずらして描かれた黄色い満月。それは、太陽(日本)を正面から見据えるのは畏れ多いという謙虚さと、太陽の光を静かに照らし返す月でありたいという、パラオの人々の奥ゆかしい親愛の情の表れです。魂に刻まれた両国の絆は、今も決して揺らぐことはありません。
やまとこたろう
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