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支那事変(日中戦争)の真実:侵略だったのか? 56-1/4

 

はじめに:自虐史観の呪縛を解き、多角的な視点を持つ

日本の近代史を語る際、多くの教科書や主要メディアは「戦前の日本は軍国主義に走り、中国を一方的に侵略した悪い国だった」という、いわゆる自虐史観に基づいた記述に終始しています。しかし、当時の一次資料や国際情勢を虚心坦懐に紐解けば、そこには語られていない「もう一つの真実」が浮かび上がってきます。

歴史には正負の両面がありますが、負の側面のみを誇張し、先人の歩みを「絶対悪」と断罪することは、真実の探求を放棄することと同義です。日本がいかなる国際的策謀の中で戦わざるを得なかったのか、そして日本軍が戦地で見せた高潔な振る舞いとは何だったのか。本稿では、封印されてきた歴史の「正」の側面に光を当て、その深層に迫ります。


第1章:「戦争」ではなく「事変」と呼ばれた真意

国際法上の「不戦」という選択

現在、学校教育では「日中戦争」と教わりますが、当時の正式名称は**「支那事変」**です。この違いは極めて重要です。国際法上、宣戦布告を行えば「戦争」となり、第三国に対して「中立法」が適用されます。すると、石油や鉄鋼などの戦略物資を海外から調達することが不可能になります。

日本も、蒋介石率いる南京政府(国民政府)も、物資の輸入ルートを確保するためにあえて宣戦布告を行いませんでした。つまり、双方が「これは全面戦争ではない」という建前を維持しながら戦っていたという、奇妙な構造があったのです。

国家としての実態なき大陸

もう一つ重要な事実は、当時の中国大陸には現在のような統一国家「中華人民共和国」は存在しなかったということです。実態は各地に強力な軍隊を持つ「軍閥」が割拠する、日本の戦国時代のような状態でした。日本が対峙したのは、大陸の主権国家ではなく、米英ソの支援を受けて勢力を伸ばそうとする「一勢力としての国民党軍」だったのです。


第2章:盧溝橋事件の真相――仕掛けられた「衝突」と共産党の影

正当な駐留と「第一発の銃声」

昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と国民党軍が衝突しました。自虐史観ではこれが日本の侵略の始まりとされますが、日本軍がそこにいたのは、1901年の北京議定書という国際条約に基づいた正当な治安維持活動のためでした。他国(英米仏など)の軍隊も同様に駐留しており、日本だけが勝手に攻め込んでいたわけではありません。

事件の夜、演習中の日本軍に何者かが発砲しました。日本軍も国民党軍もお互いに「相手が先に撃ってきた」と主張しましたが、近年の研究では、第三勢力である中国共産党が、日本と国民党を戦わせて共倒れにするために双方を射撃したという説が極めて有力です。共産党にとって、日本と国民党が戦うことは「漁夫の利」を得る最大のチャンスだったのです。

繰り返される挑発と不拡大方針の限界

日本政府と陸軍首脳部は、当初一貫して「不拡大方針」を掲げ、現地での停戦を必死に模索しました。しかし、停戦協定を結ぶたびに、背後からの射撃や日本軍へのテロが繰り返されました。これは、戦火を広げたい勢力(共産党やコミンテルンの工作員)による巧妙な誘導でした。




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