1. 満州に対する一般的な認識と疑問 💭
満州(現在の中国東北部)と聞くと、多くの日本人は「かつて日本が侵略し、傀儡国家である満州国を建て、中国に多大な迷惑をかけた土地」というイメージを抱くかもしれません。また、「満州は古来より中国の領土であった」という認識も一般的でしょう。
しかし、これらの一般的な認識には、歴史的事実と異なる部分が含まれている可能性があります。今回のブログでは、この「満州は古来中国の領土だったのか?」という根本的な問いから、日本の関わりがもたらした**「正の側面」**も含めて、満州の真実に迫ります。
2. 「中国の領土」としての満州の歴史的検証 🧐
満州と「本来の中国」を分ける境界線
満州が古来中国の固有の領土であったかという疑問を検証する上で、重要な補助線となるのが万里の長城です。
万里の長城の意味: 中国の歴代王朝は、数千年にわたり、常に北方からの騎馬民族の侵入・侵略に脅かされてきました。万里の長城は、主にこれらの北方民族を遮断し、漢民族の居住地域を守るための、事実上の北方国境線として機能してきました。
孫文の認識: 「中国革命の父」とされる孫文が1900年頃に編纂したとされる**『シナ原地図』を見ると、彼が想定していた「中国」の領域は、この万里の長城の南側にほぼ収まっています。これは、当時の中国の指導者自身が、満州、チベット、ウイグル、内モンゴルといった地域を、「中国(漢民族の国)固有の領土」とは考えていなかった**ことを示唆しています。
清朝による統治と満州の地位: 満州は、清王朝を建てた女真族(後に満州民族と改名)の発祥の地です。清朝が中国大陸を支配した後も、満州民族は故郷を満州族の神聖な土地(封禁の地)とし、漢民族の移住を厳しく制限していました(柳条辺、封禁令)。清朝は満州の土地を保護地として扱い、中国本土(関内)とは区別していたのです。
正式な編入時期: 満州が中華人民共和国の領土として正式に位置づけられたのは、1949年の建国時です。それ以前は、中国が領有権を主張していたものの、歴史的事実としては、中国の固有の領土ではありませんでした。
満州民族による支配と漢民族の移動
清王朝は、数百万人の満州族が、数千万人の漢民族を支配するという、少数民族支配の形態をとっていました。支配階級の多くは北京に移住したため、故郷である満州は過疎化・荒廃が進みました。
次に続く
やまとこたろう
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