3. 満州への漢民族の「不法移住」と日本の関与 📈
◯人口増加と「闖関東」
17世紀以降、清朝の治世が安定すると中国大陸(関内)の人口は爆発的に増加し、19世紀初頭には4億人に達しました。土地を求める漢民族は、清朝の封禁令を破り、万里の長城を越えて満州へ不法移住するようになりました。これは「闖関東(関東へちん入する)」と呼ばれました。
さらに、清朝末期、ロシアの南下に対する危機感や、戦費調達のための財源確保のため、清朝は満州への漢民族の立ち入りを徐々に解禁します。
清朝滅亡(1912年)後の中国大陸は軍閥割拠の戦乱状態となり、生活苦や兵士による略奪から逃れるための難民が、戦乱の比較的少ない満州へとさらに大量に流入しました。満州の人口は、1900年代初頭の1,000万人から、満州事変直前の1920年代には2,000万人を超え、ピーク時には年間100万人のペースで増加したと言われます。
◯治安維持とインフラ整備の光
満州に急増した人口と、軍閥や盗賊(馬賊)の横行により、満州の治安は極度に悪化しました。しかし、その中で唯一、治安と秩序が保たれ、人々が集まった場所がありました。
それは、日露戦争の結果、日本が獲得し、経営権を有していた南満州鉄道(満鉄)の付属地です。
「満鉄付属地」の機能: 満鉄付属地では、日本が警察権を行使し、学校、病院、工場、ホテルなどの近代的なインフラを整備しました。これらの地域は、軍閥の支配下にある満州の他の地域と比べ、安全で衛生的な環境と安定した生活が提供されました。
難民の避難先: 中国大陸から来た漢民族の難民たちは、この日本の管理下にある満鉄付属地こそが、戦乱と略奪から逃れ、安全に暮らせる場所であると認識し、続々と集まってきました。満鉄付属地は、まさに避難民を受け入れる強力な磁石のような役割を果たしたのです。
◯満州事変と庶民の歓喜
満州の大部分を支配していた張作霖・張学良親子(漢民族)による軍閥支配は、過酷な税の取り立て(5年後の税まで徴収)や、その私腹を肥やす浪費ぶりから、満州の庶民(大半が漢民族)から極度に嫌われていました。
1931年に関東軍が満州事変を起こし、軍閥の張学良軍を追い出した際、満州に住む2,000万人を超える庶民はこれを大喜びし、拍手喝采で迎えたと記録されています。これは、満州事変が、日本による一方的な「侵略」ということではなく、軍閥の圧政からの解放として満州の庶民に受け止められたという重要な事実を示しています。
4. 国際社会の反応と日本の主張 🌐
満州事変後、中国の訴えにより国際連盟はリットン調査団を派遣しました。その調査結果は、日本の満州に対する貢献を一部認めつつも、「満州の実質的な住民の大半が中国人となった今、満州は実質的に中国人の国である」として、日本の撤退を促すものでした。
これに対し、日本は「満州は古来中国の領土ではない」「移住してきた中国人は戦乱から逃れた避難民であり、満州国はその避難民を受け入れた難民国家のようなものである」と反論しました。この主張が聞き入れられなかった結果、日本は国際連盟を脱退することとなりました。
5.結論:歴史的事実に基づく再評価を 💡
これらの事実から、満州に関する従来の**「日本による一方的な侵略」という認識には、以下の点で事実誤認**があることが分かります。
満州は古来中国の固有の領土ではなかった。
満州の人口急増の主要因は、中国大陸の戦乱から逃れた漢民族の難民移住であった。
日本の関与(満鉄付属地)は、戦乱と圧政の中、人々に安全と近代的な生活基盤を提供した側面があった。
満州事変は、地元の庶民に「軍閥の圧政からの解放」として受け止められた側面があった。
日本の歴史には確かに反省すべき「負の側面」がありますが、これらの歴史的事実を踏まえると、満州における日本の行動は、単なる「侵略」という一言で片付けられるものではなく、人道的な側面やインフラ整備による地域への貢献という「正の側面」も存在したと言えます。感情論ではなく、事実に基づいた多角的な歴史認識を持つことが重要です。
やまとこたろう
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