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共産主義の脅威と日本の危機感:シベリア出兵の背景 50

ロシア革命とコミンテルンの世界戦略

第一次世界大戦の最中にロシアで起こったロシア革命(1917年)により、ロマノフ朝が倒れ、世界初の共産主義国家であるソビエト連邦(ソ連)が誕生しました。ソ連は、そのイデオロギーを世界中に拡大するための組織であるコミンテルン(国際共産党)を設立し、「世界革命」を目指しました。

コミンテルンは、各国に支部を作り、具体的な活動を展開しました。

  • 日本国内への浸透: コミンテルンは、日本の皇室制度を打倒し、共産主義革命を起こすための具体的な指令を日本支部に送っていました。

  • 対日運動の扇動: 中国の民族意識を共産主義の思想で煽り、反日運動を展開させるなど、日本に対する国際的な包囲網を築こうとしました。

「ロマノフ朝の悲劇」が示す危機感

ロシア革命において、皇帝ニコライ2世とその家族は、馬まで含めて皆殺しにされました。この事実は、共産主義革命の恐ろしさと非情さを世界に知らしめるものでした。当時の日本政府や国民には、「これを日本でもやろうとしているのではないか」という深刻な危機感が共有されていました。

実際に、アメリカを除くヨーロッパ諸国も、ソ連の誕生と共産主義のイデオロギーを「世界秩序を脅かす危険な思想」として認識していました。世界中の政府を転覆させ、富裕層を粛清し、共産主義の理想郷を建設するという彼らの主張は、当時の国際社会にとって看過できない大問題だったのです。


🌍 国際共同出兵としてのシベリア出兵

脅威に対抗するための国際的な協調

シベリア出兵は、日本単独の「勢力拡大」を目的としたものではありませんでした。ヨーロッパ諸国を含めた列強が、ロシア革命の波が自国に及ぶことを防ぎ、シベリアに残されたチェコスロバキア軍を救出するという国際的な目的のために行われた共同出兵でした。

  • 多国籍軍の参加: 日本の他、イギリス、フランス、イタリアなどのヨーロッパ諸国も兵を送り込みました。

  • アメリカの参戦: 当初、共産主義を危険視していなかったアメリカは、日本の出兵を「利権拡大」と疑い横槍を入れました。しかし、イギリスの仲介もあり、最終的には日米共同出兵という形でアメリカも参加することになります。

シベリア出兵は、共産主義の拡大を食い止めようとした当時の国際社会の意思の現れであり、日本はその中で重要な役割を果たしたのです。


誤算と混乱:アメリカの態度と日本軍の戦略的未熟さ

しかし、この出兵は混乱を極めます。特に、アメリカは共同出兵に参加したにもかかわらず、日本の行動に干渉し、結果的に共産主義者側に利するような姿勢を見せるなど、西側諸国間の足並みが揃いませんでした。アメリカが共産主義の真の危険性に気づくのは、第二次世界大戦後の冷戦期に入ってからです。

また、共同出兵を主導したヨーロッパ諸国は、シベリアとヨーロッパの間に緩衝国(バッファーステート)の独立が確保できるなど、目的が達成できた時点で速やかに撤退しました。

一方で日本軍は、戦闘能力は高かったものの、

  • 戦略的な見通しの欠如

  • 撤退のタイミングを見極める指揮官の不在

といった問題により、撤退が遅れました。その結果、日本兵を含む多数の外国人が惨殺される「尼港事件」(1920年)などの悲劇が発生し、国民世論の激化により、泥沼の状態に引きずり込まれてしまいました。


💡 歴史的事実の追加:日本軍は「満州独立」の基盤を築いた

シベリア出兵は外交的には「失敗」と評価されることが多いですが、この出兵がもたらした長期的な結果として、日本の**「満州権益」**が確定し、後の満州国建国の遠因の一つとなりました。ソ連のシベリア支配を一時的に遅らせ、満州地域での日本の安全保障上の地位を確立したという点では、共産主義の南下を防ぐ防波堤としての役割を間接的に果たしたと言えます。


🎓 結び:シベリア出兵から学ぶ教訓

シベリア出兵は、「共産主義の脅威」という正当な危機感と国際的な要請によって始まりながらも、国内の政治対立や戦略的な未熟さにより、外交的には「失敗」と評価される結果に終わりました。

後の総理大臣加藤高明が「何一つ得るもののなかった外交上稀に見る失敗」と評価した通り、この出兵は、「引き際を見極める戦略眼」と「情勢を把握できる優秀な指揮官」の重要性を浮き彫りにしました。この戦略の不在は、後の大東亜戦争の敗戦にもつながる、戦前日本の大きな課題であったと言えるでしょう。

シベリア出兵は、日本の歴史において「負の側面」として語られがちですが、その根底には「世界を共産主義の脅威から守ろうとした」という「正の動機」があったことを忘れてはなりません。歴史の多面的な解釈こそが、私たちに未来への教訓を与えてくれるのです。

                   やまとこたろう


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