今回は、日露戦争後のアメリカにおける対日感情の変化と、それが後の日米関係に与えた影響について見ていきたいと思います。
①日露戦争で日本がロシアに勝利すると、アメリカは日本に対して脅威を感じ始めます。ポーツマス条約(1905年)によって、日本は南満州鉄道の利権や遼東半島の租借権などを獲得し、満州における影響力を拡大しました。これは、中国権益獲得の新規参入を狙っていたアメリカとの間で摩擦を生む要因となりました。
さらに、アメリカが提案した満鉄の共同経営案を日本が却下すると、アメリカの対日不信感を増幅させることになりました。
19世紀から20世紀初頭にかけての中国大陸は、欧州列強による租借地や勢力圏が形成されており、日本も日清戦争(1894-1895年)を通じて台湾を領有していました。遅れて来たアメリカは中国大陸において何の権益も持っておらず、門戸開放政策を掲げて中国市場への新規参入を主張しましたが、ほとんど相手にされませんでした。
②日露戦争における日本の勝利は、有色人種である日本が白人国家であるロシアを破り、中国大陸における権益を新たに獲得したという点で、当時の白人優位の国際秩序に対する異議申し立てと捉えられた可能性があります。
アメリカ人の中の人種差別的な人は、「おれたち白人を差し置いて、有色人種の猿が利権を持つなんて生意気だ」と反感を抱きました。当時の世界は有色人種は白人の奴隷にされているのが当たり前の世の中であり、アメリカには黒人奴隷制が根強く残っていましたから、彼らがこう思うのも無理ないところでしょう。
中国で反日ナショナリズムが起こると、アメリカは中国のナショナリズムの高まりを利用し、日本の影響力を排除し代わりに自分たちが入り込もうと画策しました。
③海軍増強問題:アメリカは軍事力を背景にパナマを強引に独立させ、パナマ運河を建設し支配し、併合したハワイに軍港を整備するなどして、太平洋への進出を図る体制を構築していきました。そのアメリカにとって、ロシアのバルティック艦隊を殲滅した日本の海軍力は大きな脅威となりました。
アメリカは日本との戦争を想定し、1920年代初頭から対日戦争計画であるオレンジ計画を策定しました。この計画には、日本の海上封鎖や主要都市への爆撃などが含まれており、アメリカが早期から日本との戦争を視野に入れていたことを示唆しています。
④もう一つの日米間の摩擦の要因となったのが、日系移民問題です。明治元年から日本人のハワイ移民が始まり、さらに20世紀に入るとアメリカ西海岸に激増しました。白人労働者は、人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点から、激しく日系移民を排斥するようになりました。それにはドイツのヴィルヘルム2世が唱えた黄禍論の影響もありました。
アメリカにおける日系移民への差別は、日本の国際的な台頭とともに、より露骨になっていきました。是正のため日本はアメリカ政府に働きかけ、日本政府が自主的にアメリカへの移民を制限する代わりに、アメリカ政府が日系移民に対する差別的な法律を制定しないという日米紳士協定(1907年)を締結しました。
しかし、1913年のカリフォルニア州外国人土地法をはじめとする一連の法律が制定され、日系移民の土地所有や賃借を制限することになり、日米紳士協定は一方的に破棄されました。そして、1924年の排日移民法(移民法改正法)で、日本人を特定してアメリカへの移民を全面的に禁止し、日本国民に大きな衝撃を与えました。
これは、単なる日系移民と白人との経済的な対立だけでなく、根深い人種差別が背景にあったことを示唆しています。日米開戦の18年前のこの出来事は、両国関係が破局へと向かう上で重要な転換点となりました。
⑤大東亜戦争は、真珠湾攻撃によって始まったというイメージが強いかもしれませんが、その背景には、日露戦争後のアメリカの対日政策の転換、満州問題、米国海軍増強、日系移民への差別といった複合的な要因が絡み合っていました。オレンジ計画の存在は、アメリカが日本の台頭を警戒し、軍事的な準備を進めていた証左と言えるでしょう。
これらの歴史的経緯を理解することは、大東亜戦争を多面的に捉える上で不可欠でしょう。
やまとこたろう
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