スキップしてメイン コンテンツに移動

36.アメリカの対日感情の変化 〜大東亜戦争の遠因〜

今回は、日露戦争後のアメリカにおける対日感情の変化と、それが後の日米関係に与えた影響について見ていきたいと思います。


①日露戦争で日本がロシアに勝利すると、アメリカは日本に対して脅威を感じ始めます。ポーツマス条約(1905年)によって、日本は南満州鉄道の利権や遼東半島の租借権などを獲得し、満州における影響力を拡大しました。これは、中国権益獲得の新規参入を狙っていたアメリカとの間で摩擦を生む要因となりました。

さらに、アメリカが提案した満鉄の共同経営案を日本が却下すると、アメリカの対日不信感を増幅させることになりました。

19世紀から20世紀初頭にかけての中国大陸は、欧州列強による租借地や勢力圏が形成されており、日本も日清戦争(1894-1895年)を通じて台湾を領有していました。遅れて来たアメリカは中国大陸において何の権益も持っておらず、門戸開放政策を掲げて中国市場への新規参入を主張しましたが、ほとんど相手にされませんでした。



②日露戦争における日本の勝利は、有色人種である日本が白人国家であるロシアを破り、中国大陸における権益を新たに獲得したという点で、当時の白人優位の国際秩序に対する異議申し立てと捉えられた可能性があります。

アメリカ人の中の人種差別的な人は、「おれたち白人を差し置いて、有色人種の猿が利権を持つなんて生意気だ」と反感を抱きました。当時の世界は有色人種は白人の奴隷にされているのが当たり前の世の中であり、アメリカには黒人奴隷制が根強く残っていましたから、彼らがこう思うのも無理ないところでしょう。


中国で反日ナショナリズムが起こると、アメリカは中国のナショナリズムの高まりを利用し、日本の影響力を排除し代わりに自分たちが入り込もうと画策しました。



③海軍増強問題:アメリカは軍事力を背景にパナマを強引に独立させ、パナマ運河を建設し支配し、併合したハワイに軍港を整備するなどして、太平洋への進出を図る体制を構築していきました。そのアメリカにとって、ロシアのバルティック艦隊を殲滅した日本の海軍力は大きな脅威となりました。

アメリカは日本との戦争を想定し、1920年代初頭から対日戦争計画であるオレンジ計画を策定しました。この計画には、日本の海上封鎖や主要都市への爆撃などが含まれており、アメリカが早期から日本との戦争を視野に入れていたことを示唆しています。



④もう一つの日米間の摩擦の要因となったのが、日系移民問題です。明治元年から日本人のハワイ移民が始まり、さらに20世紀に入るとアメリカ西海岸に激増しました。白人労働者は、人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点から、激しく日系移民を排斥するようになりました。それにはドイツのヴィルヘルム2世が唱えた黄禍論の影響もありました。

アメリカにおける日系移民への差別は、日本の国際的な台頭とともに、より露骨になっていきました。是正のため日本はアメリカ政府に働きかけ、日本政府が自主的にアメリカへの移民を制限する代わりに、アメリカ政府が日系移民に対する差別的な法律を制定しないという日米紳士協定(1907年)を締結しました。

しかし、1913年のカリフォルニア州外国人土地法をはじめとする一連の法律が制定され、日系移民の土地所有や賃借を制限することになり、日米紳士協定は一方的に破棄されました。そして、1924年の排日移民法(移民法改正法)で、日本人を特定してアメリカへの移民を全面的に禁止し、日本国民に大きな衝撃を与えました。

これは、単なる日系移民と白人との経済的な対立だけでなく、根深い人種差別が背景にあったことを示唆しています。日米開戦の18年前のこの出来事は、両国関係が破局へと向かう上で重要な転換点となりました。



⑤大東亜戦争は、真珠湾攻撃によって始まったというイメージが強いかもしれませんが、その背景には、日露戦争後のアメリカの対日政策の転換、満州問題、米国海軍増強、日系移民への差別といった複合的な要因が絡み合っていました。オレンジ計画の存在は、アメリカが日本の台頭を警戒し、軍事的な準備を進めていた証左と言えるでしょう。

これらの歴史的経緯を理解することは、大東亜戦争を多面的に捉える上で不可欠でしょう。



                 やまとこたろう


ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村



コメント

このブログの人気の投稿

満州国の発展:統計が語る「正の遺産」と理念の検証 53−3

1. 歴史の「光」に焦点を当てる 満州国(1932年~1945年)と聞くと、多くの人は、日本の軍事的関与や、歴史の「負の側面」を連想するかもしれません。確かに、その樹立過程と統治の実態には様々な論点が存在します。 しかし、その影に隠されがちなもう一つの事実があります。それは、満州国が、混乱した軍閥支配から脱却し、 アジアの未来を見据えた驚異的な速度で近代化を達成した、大規模な国家建設プロジェクト であったという点です。 本稿では、当時の中国大陸では類を見ない規模のプロジェクトであった満州国の発展を、感情論ではなく、 具体的な統計データ で検証します。計画経済による 産業の飛躍 、 インフラの劇的拡大 、そして 多民族共存の理念 という「正の遺産」に焦点を当てて迫ります。 2. 驚異的な飛躍:経済とインフラのデータが語る事実 満州国政府は、天然資源を活用した重工業化を推進し、後の中国東北部(東三省)の経済基盤を築きました。その発展は、当時の世界でも稀に見るものでした。 A-1. 計画経済が生んだ「アジアの奇跡」 満州国は、五カ年計画などの計画経済を通じて工業生産の急速な拡大を図りました。 1930年代を通じて、満州国の工業生産額は、 年平均約10%という驚異的な成長率を維持しました。これは当時の世界経済において非常に稀な高成長であり、「計画的な産業開発」が実を結んだ ことを示す強力な裏付けです。 A-2. 鉄鋼生産の頂点 重化学工業の中核を担ったのは、鞍山 アンザン 製鉄所(満州製鉄)です。 鞍山製鉄所 を中心とした粗鋼生産は、ピーク時に 年間 約200万トン に達しました。これは当時の日本の総生産量には及ばないものの 、 中国大陸においては圧倒的な規模 を誇り、満州を アジア有数の重工業地帯 へと変貌させました。 この基盤は 、戦後の中国東北部の工業復興においても重要な役割を果たしました。 A-3. 国土を結ぶ大動脈:満鉄の役割 南満州鉄道(満鉄)は、単なる鉄道会社ではなく、満州経済開発の心臓部であり、「満州国の中の満州国」とも呼ばれました。 約15年という短期間で鉄道総延長は 約11,500kmへとほぼ倍増 しました。この緻密で広大な鉄道網の整備は、資源輸送と都市間連携を可能にし、 国家建設のエンジン としての満鉄の役割の大きさを物語っています。        ...

34.日露戦争での日本勝利への世界の反応 

日本の勝利への世界の反応などをまとめてみます。 ①インド初代首相ネルー: 「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩きつぶされると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかなわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、日本が勝ったのだ。 私は、自分たちだって決意と努力次第ではやれないはずはないと思うようになった。そのことが、今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは、日本なのだ。」 ②中華民国建国孫文: 「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くにいたり、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた。」 ③英国領ビルマの初代植民地首相バ・モウ: 「最初のアジアの目覚めは、日本のロシアに対する勝利に始まり、この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けだった。 ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。 日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の州発点と呼べるものであった。」 ④トルコ皇帝: 「われわれは、日本人の成功を衷心から喜ばなくてはならない。 ロシア人に対する日本人の勝利は、すなわちわれわれ有色人種の勝利である。 国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきではない。」 ④ロンドンタイムズ(新聞記事): 「日本海軍の目標は、単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。これを撃滅することだった。そして、決意したことを成し遂げたのだ。 その理由は、軍艦にも砲にも、乗組員の熟練度にも、戦術の巧拙にも求められない。 精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や、あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。対馬海峡の勝利は、武士道によってもたらされたものである。」 ⑤アフリカ系米国人W.E.B.デュボイス: 「有色人種が先天...

満洲国の発展:五族協和と王道教育 53-4

3. 五族協和と王道教育 🎌 3-1. 多民族共存の試み:「五族協和」 満州国の基本理念は、「 五族協和 」と「 王道楽土 」でした。これは、人種平等を原則とし、満州人、漢人、日本人、朝鮮人、蒙古人の多民族間の協調と共存を目指し、当時の世界では先進的な試みでした。 民族構成: 満州人、漢人、日本人、朝鮮人、蒙古人、白系ロシア人 多言語の尊重: 主要な公文書や標識には、日本語、中国語、モンゴル語などが併記され、多民族国家としての統治が形式上は謳われました。 3-2. 社会基盤の近代化 漢人の軍閥時代には教育機会が極めて限られていましたが、 満州国では教育と公衆衛生の近代化が図られました。 王道教育の普及: 各民族の子供たちに教育の機会を与えるため、小学校の設立が積極的に行われました。 人材育成: 五族協和の理念を体現するエリート育成機関として 建国大学 が設立され、民族や階級を問わず、広く人材が登用されました。 公衆衛生の改善: 満鉄病院を筆頭に近代的医療が導入され、衛生状態の悪かった地域で伝染病対策が進みました。 4. まとめ 満州国建国後の施策は、 工業生産額の年平均約10%成長 、 鉄道総延長の倍増 といった数値に裏付けられるように、経済的な繁栄と社会の近代化を目指した、大規模な国家建設でした。満州国時代に築かれた産業基盤は、現代の中国東北部(旧満州地域)の経済、ひいては新中国建国初期の経済発展に貢献する大きな遺産を残しました。             やまとこたろう ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。    ↓          ↓ にほんブログ村