スキップしてメイン コンテンツに移動

27−4.台湾統治に見る日本の植民地支配


日清戦争の講和条約である下関条約の結果、1895年に日本は清国から台湾を譲り受けました。今回はその台湾統治について述べていきます。


①台湾と言えば、親日国として有名ですけれども、最初から日本を歓迎していたというわけではありません。当時の西洋列強による植民地支配というのは、現地人から搾り取れるだけ搾り取るというのが当たり前でしたから、当然台湾の人たちも植民地なるのは嫌だ!ということで抵抗します。しかし、日本の統治のやり方を見た台湾の人たちは、次第に矛を収め5年ほどで抵抗をやめてくれます。



②では、具体的にはどんな統治をしたのでしょうか。

まず、一番にやったことは、上下水道や鉄道の整備といった社会インフラを整えることと、教育の普及です。

上下水道整備によって、ペストを根絶しマラリアを半減させることに成功します。

教育の普及によって、日本統治の50年間の間に、識字率はなんと92パーセントまで向上します。これはすごいことですよね。ちなみに、白人から植民地支配を受けていたほかの国はどうだったかというと、軒並み一桁パーセントですよ。


また、アヘンの吸引についても、今の日本のタバコ教育のようなことを行って、3年で輸入額を3分の1にまで減らすことに成功しています。

また、農業技術を現地の人に教えたり、品種改良することによって、当時飢餓の国だった台湾を一転食料輸出国にまで成長させることに成功しています。

ほかにも、銀行を創ったり、電気を通したり、法律を作って治安をよくするなど様々なことを行っています。


戦後の台湾がいち早く復興して独立することができたのは、このように日本が社会インフラや教育などを整備していたからなのです。このような統治を台湾だけではなく、インドネシアでもパラオでもそして朝鮮でも行っていたわけです。



③今の世の中で、八紘一宇ハッコウイチウなどという言葉を使えば、あいつは右翼だとか言われてしまいますけれども、全然違うのです。

戦前の日本は、大真面目に万国繁栄を目指していたことが、当時のやり方からも分かりますよね。戦前の日本人たちは、アジアがみんなで繁栄するという理想を持って働き、その理想を体現した植民地の統治という実績もあったからこそ、この道が正しいと信じて突き進むことができたのではないでしょうか。


人は命令されれば動くわけでは決してありません。一人一人が困っている人のために誠実に動くことによって信頼関係が生まれます。そして、それを守っていこうとすることによって、強さが生まれるのです。

不利な状況であっても、最後まで白人に屈しなかった戦前の日本人の強さの源はここにあったのではないでしょうか。



④さて、ここまで述べてくると、日本が大嫌いな人とか某隣国の人とかが、日本は日本語を教育することで母国語を奪ったという的はずれな批判をする人がいますが、これは違います。


考えてみてください。そもそも識字率が消費税よりも低いようなところに日本人が行って教育するわけですよ。当然教師は日本人であるわけですから、日本語を中心に教えるのが当たり前じゃないですか。


で、日本語を教えることにより、現地に通訳を育てたり、共通言語を持たせるという意味があったのです。さらに言えば、現地の近代化を進めるに当たっては、現地の言葉だけでは絶対に不可能だったのです。何故なら、近代的な科学とか技術とかを学ぼうとするときに、現地の言葉にそのような言葉はないのです。だから、日本語で教えていたわけです。


日本では明治の初めに、福沢諭吉さんを中心とした知識人たちが、西洋から入ってきた言葉とか概念をすべて日本語に直すという作業をやってくれているのです。今の日本人が高校や大学で日本語で当たり前に授業を受けることができるのは、この人たちのお陰なんです。日本にいると気づかないのですけれど、ほかの国々では共通語として英語なんかを勉強していないと、高等教育を受けられないのが普通なのです。


日清戦争後、日本に学べと清国から多くの人が日本に学びにきました。かれらは、自然科学・社会科学などの言葉や概念をこの和製漢語によって学び、それを中国に持ち帰り辞書を作り、現代中国では自然科学・社会科学の翻訳語の7割をこの和製漢語が占めると言われています。




                   やまとこたろう




ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。

   ↓          ↓

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   

          PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

37.日韓併合 〜その実情

  今回は、日露戦争のわずか6年後の1910年に行われた 日韓併合 について見ていきたいと思います。 ①日韓併合の背景:大韓帝国の実情と日本の安全保障 日韓併合は、日本が武力で一方的に制圧・占領したものではなく、当時存在した 李氏朝鮮の最後の姿である大韓帝国が、日本の統治下に入ることを選択し、「韓国併合に関する条約」によって実現したもの です。 日韓併合の対象となった大韓帝国は、現在の韓国と北朝鮮を合わせた朝鮮半島一帯を統治していた国です。元々「朝鮮」あるいは「李氏朝鮮」という国名でしたが、この王朝は1392年から約500年間朝鮮半島を支配していました。高麗の臣下であった李氏が明の力を借りて建国した経緯から、 明、そしてその後の清の属国として長い歴史 を歩みました。 李氏朝鮮時代の約500年間は、両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級が権力を握り、多くの国民が貧困と搾取に苦しんでいたとされています。人口も減少傾向にあり、文化的な停滞も見られました。これについて歴史家の崔基鎬(チェ・ギホ)氏は、「他力本願ながら李朝の歴史に終止符を打った日韓併合は、この民族にとって千載一遇の好機であった。これを否定することは歴史の歪曲である」と述べています。日韓併合前の朝鮮半島は、このように国民の窮乏と文化的な停滞が長く続いた歴史を持っていました。 1895年の 日清戦争 で勝利した日本は、その後の日露戦争を経て、清の支配から李氏朝鮮を独立させました。これにより、朝鮮半島は500年ぶりに独立し、 大韓帝国が成立 したのです。 ②ロシアの南下政策と日本の危機感 話は前後しますが、当時の日本にとって最大の脅威は ロシアの南下政策 でした。ロシアの勢力が朝鮮半島まで南下すれば、北海道のすぐ北にある樺太(サハリン)と、九州の北に位置する朝鮮半島によって日本は挟撃される形となり、日本の安全保障は一層深刻なものになります。そのため、 朝鮮半島は日本にとって、何としても死守しなければならない生命線 でした。 しかし、国力が衰退していた李氏朝鮮には、自力でロシアの脅威から朝鮮半島を守る力はほとんどありませんでした。そこで日本は、朝鮮半島の近代化を支援し、ロシアの進出を阻もうとしましたが、長年宗主国として朝鮮を属国化していた清国は、当然これを許そうとしませんでした。 ③日清・日露戦争と日本の影響力確...

第一次世界大戦前夜:帝国主義の衝突 41-1/2 

  第一次世界大戦を簡潔に表現するならば、 それは 白人列強による植民地争奪戦の最終局面 と言えるでしょう。 この戦争に至るまでの国際情勢を詳しく見ていきましょう。 ①産業革命と植民地拡大の競争 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国は産業革命を背景に、地球規模での植民地獲得競争を繰り広げていました。イギリスやフランスは、早期に産業革命を達成し、広大な植民地帝国を築き上げていました。一方、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアといった後発の国々は、植民地獲得に出遅れていました。 しかし、この時期にドイツは急速な工業化を遂げ、「世界の工場」と呼ばれるほどの経済力をつけるに至ります。経済力の増大は、当然ながら国際社会における影響力の拡大を求める声へとつながり、ドイツはより多くの植民地、ひいては勢力圏を求めるようになりました。 ②アフリカ分割と列強同士の争い 列強が海外に目を向けた頃には、日本と中国を除いて、東アジアにおける植民地支配はほぼ完了していました。そこで、ヨーロッパ各国が次なる目標としたのがアフリカ大陸です。アフリカ分割競争は激化し、わずかな期間で大陸のほとんどが列強によって支配されてしまいました。 そして、アフリカ大陸にも「取り尽くす場所」がなくなると、今度は白人国家同士の醜い争いが表面化し始めます。これが、第一次世界大戦へとつながる直接的な引き金の一つとなります。 ③三B政策と三国同盟・三国協商の形成 第一次世界大戦勃発の大きな要因となったのは、ドイツの推進した**3B政策(ベルリン、ビザンチウム、バグダッドを結ぶ鉄道建設構想)**です。この政策は、ドイツがオーストリア=ハンガリー帝国を経由して中東まで鉄道網を延伸しようとするものでした。 このドイツの動きに対し、ロシアは南下政策の妨げとなると危機感を抱きました。また、イギリスはスエズ運河の権益が脅かされること、さらに鉄道がインドに到達することでその支配が危うくなる可能性を懸念し、看過できませんでした。 こうして、利害が一致したイギリス、フランス、ロシアは 三国協商 を結び、ドイツに対抗する姿勢を明確にしました。これに対しドイツは、同じく植民地獲得に出遅れていたオーストリア=ハンガリー帝国、イタリアと 三国同盟 を結び、勢力均衡を図りました。 ④サラエボ事件と大戦勃発 オスマン帝...

34.日露戦争での日本勝利への世界の反応 

日本の勝利への世界の反応などをまとめてみます。 ①インド初代首相ネルー: 「私の子供の頃に日露戦争というものがあった。その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。世界中は、ちっぽけな日本なんかひとたまりもなく叩きつぶされると思っていた。アジア人は西洋人にはとてもかなわないと思っていたからだ。ところが戦争をしてみると、日本が勝ったのだ。 私は、自分たちだって決意と努力次第ではやれないはずはないと思うようになった。そのことが、今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。私にそういう決意をさせたのは、日本なのだ。」 ②中華民国建国孫文: 「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くにいたり、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた。」 ③英国領ビルマの初代植民地首相バ・モウ: 「最初のアジアの目覚めは、日本のロシアに対する勝利に始まり、この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けだった。 ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。 日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の州発点と呼べるものであった。」 ④トルコ皇帝: 「われわれは、日本人の成功を衷心から喜ばなくてはならない。 ロシア人に対する日本人の勝利は、すなわちわれわれ有色人種の勝利である。 国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきではない。」 ④ロンドンタイムズ(新聞記事): 「日本海軍の目標は、単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。これを撃滅することだった。そして、決意したことを成し遂げたのだ。 その理由は、軍艦にも砲にも、乗組員の熟練度にも、戦術の巧拙にも求められない。 精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や、あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。対馬海峡の勝利は、武士道によってもたらされたものである。」 ⑤アフリカ系米国人W.E.B.デュボイス: 「有色人種が先天...