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27-3. 三国干渉 〜朝鮮独立の後戻り〜

 日清戦争で勝利した日本は、台湾や遼東半島などの領土を得ましたが、今回はその後の話です。


①日清戦争でボロ負けした清国は、こともあろうにロシアに泣きつき、日本を遼東半島から追い出そうとします。


その結果、ロシア・ドイツ・フランスの三カ国から、「日本は東アジアの平和のために、遼東半島を清国に返すべきである」と要求されます。


日本にとっては理不尽この上ない要求なんですけれども、まともな状態で戦ったとしても勝てる見込みは薄いのに、日清戦争で消耗した日本国がこの三カ国を相手にして勝てる見込みはまったくありません。仕方なく要求を受け入れて、遼東半島を清国に返すことになります。


しかし、この干渉の直後、ロシアは清から遼東半島を奪い植民地にしています。これによって、日本国民は大激怒、「ロシアの奴め今に見ていろ。この借りは必ず返すぞ」となり、臥薪嘗胆ガシンショウタンという言葉をスローガンに富国強兵を再度推し進めることになります。



②ところが、当時の国際情勢を的確に把握していた陸奥宗光だけは、冷静に状況を把握していました。だから、「ロシアが干渉してくることを見越して、清から多目に領土を取っておいたのだ」ということが回顧録に記してあるそうです。


実際、朝鮮の独立という目的のためには、遼東半島というのは実は必要ないところなんですね。なので、この話もあながち陸奥宗光の強がりではないのかなとも思われます。


この三国干渉のあと、白人に弱みを見せまくってしまった清国は、西洋列強から植民地にされていくことになります。



③さて、この間の朝鮮の動きはどうかと言うと、まあいつもの通りでした。日本が三国干渉でロシアに譲歩した姿を見せると、「日本は清国には勝利したが、白人には屈した。やはり白人の方が強い」と考えるようになります。


一方、「ロシアについても何もいいことないじゃないか。侵略されるだけじゃないか」と考えるまともな人もいたので、争いになります。日本は朝鮮には早く独立してほしかったので、内政には口を出しませんでした。


ところが、それを見た朝鮮人たちは、「日本が口を出してこないのはロシアが怖いからだ。やっぱりロシアにつこう」となって、朝鮮独立は後戻りしてしまいます。自分のためを思ってしてもらったことであっても、相手が譲歩したらそれは相手に弱みがあるからだとしか考えられない国民性が、ここでも発動してしまったようですね。



④結果、日本公使館は何度も襲撃され、日本人は何度も惨殺されました。これにブチギレた現地の日本人と少数の親日派の人たちが、その時実権を握っていた親露派の閔妃ビンピを殺してしまいます。


で、親日派が政権を作ろうとするのですが、こともあろうに、朝鮮国王がロシア公使館に逃げ込んでしまいます。その結果、親日派は全員惨殺され、朝鮮近代化計画も全てロシアによって潰されてしまうことになります。


それは、朝鮮を植民地にして搾り取りたいロシアからしたら、朝鮮の近代化計画なんて迷惑以外の何ものでもないですからね。


こうして、朝鮮はもはや清国の属国ではないと、胸を張って「大韓帝国」と称して皇帝を名乗ることになります。しかし、実質的にはロシアの操り人形ですから、宗主国が清国からロシアに変わっただけですよね。


このことが日本にとっては大きな脅威となり、後の日露戦争の原因となってしまいます。






                   やまとこたろう





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