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24−4−5.大英帝国の中国侵略:アヘン戦争

アヘン戦争は、1840年アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの清に対する侵略戦争です。イギリスは清朝政府のアヘン投棄を口実に開戦に踏み切り、勝利することによって南京条約を締結し、香港の割譲などの権益を得ました。これが西洋帝国主義勢力による中国侵略の第一歩となりました。 ◯イギリスと清の貿易→イギリスから清に銀が大量に流出: 産業革命によって工場労働者にお茶を飲む習慣が広まったイギリスでは茶の需要が増大し、茶の輸入が増加しました。しかし、清ではイギリス産品は売れず、イギリスは大幅貿易赤字になりました。イギリスは輸出入で出た差額を銀で支払わなければならず、大量の銀がイギリスから清に流出していきました。 因みに、産業革命による工場排水の悪影響からイギリスの水質は悪く、とても飲めたものではありませんでした。そのため工場労働者は水の代わりにビールを飲んでいましたが、労働に適した飲料ではありませんでした。そこにお茶が入ってきたのです。お茶に抗菌作用と覚醒作用があることから、工場経営者もお茶を飲むことを促進し、工場労働者の間にお茶を飲む習慣が広まっていったのです。 ◯イギリスの銀の流出→三角貿易で回収をはかる: イギリスは清から銀の回収をはかるため、3億人の巨大な清国市場に参入するため、清国内のアヘン吸飲の習慣に目をつけ、イギリス植民地のインド農民にケシを栽培させ、ケシから採ったアヘンを清へ密輸し始めました。イギリスが大量のインド産アヘンを清に密輸した結果、清ではアヘン吸飲が広がり、アヘン密貿易が増えました。そのため、アヘンの対価として茶だけでは足りず、清はその差額を銀で支払うようになりました。今度は逆に清から大量の銀が流出するようになったのです。銀の大量流出は銀の価値を暴騰させて清の経済を混乱させるとともに、清をますます弱体化させていきました。 ◯清のアヘン取締まり→アヘン戦争: このような状況下、清朝政府はアヘン取締まりのために林則徐を広州に派遣しました。林則徐は広州でアヘンを没収し廃棄させ、アヘン貿易を厳禁しました。この清朝政府の対応を口実にして、イギリスはアヘン戦争(1840〜42)を起こしました。 ◯南京条約: 産業革命を経たイギリスの近代的軍事力に圧倒され、清朝政府はイギリスに完敗し、1842年に南京条約を結ばされました。上海 などの五港を開港、 香港島 を割譲、外

24−4−4.大英帝国のインド植民地支配:大英帝国のインド直接統治

 ⑨大英帝国のインド直接統治: イギリスは武力でインド植民地化を進め、1857年の インド大反乱 はヒンドゥー教徒とムスリムが共にイギリスに反抗して起こったものでした。その反乱を鎮圧したイギリスは、東インド会社を通じての間接統治からイギリス国王による直接統治に改めました。そして、2億人ものインドの民を少数者のイギリス人が支配するために、各勢力間の対立を煽り、巧みな分割統治をすすめていきました。 ◯藩王国間の対立: インド大反乱鎮圧後、約半分をイギリスの直接統治としましたが、半分は各地の勢力に藩王国として自治を認め、藩王国間の連携は認めず藩王国間の対立を煽りました。 ◯ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立: ムガル帝国 の17世紀までは融和策もあって、村落社会内部では多数をしめる ヒンドゥ教徒 と少数者である イスラム教徒 (ムスリム)は共存していました。しかし、イギリスが両教徒間の対立を煽り続けました。インド大反乱の後、インド人の民族意識が高まることを恐れたイギリスは、まずインド国民会議を組織させてその懐柔をはかりましたが、1905年のベンガル分割令で反英的になると、今度はイギリスはヒンドゥ教徒が主体だった国民会議派に対抗させるために全インド=イスラム連盟を結成させました。こうして同じインド人の中に宗教の違いによる政治勢力がうまれることとなり、両者の対立は深刻になっていきました。 ◯カースト間の対立: イギリスがインドで権力を握り始めた際、彼らはカースト制度を社会統制の手段として利用しました。イギリス人はバラモンカーストと同盟を結び、特権の一部を回復しました。イギリス植民地支配の中で、カーストの温存が植民地経営を容易にすることもあり、カースト化が進行しました。そして、イギリスはカースト間の対立を煽りました。 ◯少数民族を軍隊に起用しインド支配と海外遠征に: インド大反乱のヒンズー軍やイスラム軍 を鎮圧するために、イギリスはパンジャーブ地方の シク教 から成るシク兵を動員しました。更に、北西辺境州の パシュトゥーン人 、パンジャーブのシク、ネパールの グルカ を大量に採用し、イギリスのインド支配の支柱とし、アフガニスタン、チベット、ビルマなどへの遠征軍としました。 ◯分割統治の結果としての分離独立: ヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派の反英運動が強まると、イギリスはムス

24−4−3.大英帝国のインド植民地支配:インド大反乱

  ⑧インド大反乱: 1857年 、 インド を支配する 東インド会社 の シパーヒー と呼ばれたインド人傭兵が反乱を起こし、たちまちのうちに北インド全域に広がり大反乱となりました。反乱軍は ムガル帝国 の皇帝 (当時は実権はなく名目的な存在になっていた) を担ぎ出し、反乱に正統性を与え、また兵士だけでなく民衆の多くが反乱に参加しました。またこの反乱はヒンドゥー教徒とイスラム教徒も共に参加しました。 驚愕した東インド会社は軍隊を補強し、 ネパールのグルカ兵 (かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された) 、パンジャーブ地方のシク教徒 (かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラム教徒と根深い対立関係にあった) を味方にし、 て鎮圧にあたり、ようやくデリーを制圧してムガル皇帝を捕らえました。これによりムガル帝国は滅亡し、翌年イギリスは、 東インド会社を解散 しインドを本国の直接支配下に置きました。 ☆エピソード イギリスの残虐な捕虜処刑: <引用>反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、数人ずつ束ねて大砲の前に立たせ、弾丸もろとも吹っ飛ばすとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。 アラーハーバード近郊の街路に沿うて、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、・・・。 また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。 筆者はここで、なにも百年前のイギリス人の恥ずべき蛮行を誇張してまで告発するつもりはない。これらの行為は、イギリスの軍人じしんが‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。<森本達雄『インド独立史』1978 中公新書 p.47-78>                       やまとこたろう                   ランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。    ↓          

24−4−2.大英帝国のインド植民地支配:イギリスを産業革命に導いたインド・キャラコの大ブーム

⑥ インド・キャラコの大ブーム: 17世紀になると、オランダ・イギリス・フランスなどの東インド会社がインドに進出し、インドから「キャラコ」と呼ばれる平織り綿布を輸入するようになりました。これにより、インドは銀を得ることが出来、現物経済から貨幣経済への移行が進みました。 手織りのインド・キャラコは肌触りがよく、比較的安価で、ヨーロッパ諸国はこぞって輸入したのです。ヨーロッパに輸入されたインド綿は、17世紀末にはかなりの人気商品となりました。インド・キャラコは、異国情緒に溢れた織物であり、かつ安価でした。そして毛織物と違って水洗いが可能で、清潔に保つことが可能でした。こうした要因から、キャラコ・ブームが沸き上がったのです。 このことに脅威を感じたのがヨーロッパの諸政府でした。中でもイギリスがそうでした。 というのもイギリスは羊毛を原料とする毛織物産業が伝統的基幹産業でした。安価で人気の高いインド綿の大量流入は、毛織物産業に大打撃を与える可能性があります。そのためイギリスは、インド綿の輸入を禁止したのです。イギリスは、自国にはキャラコを入れず、他国、特にアメリカや西インドに再輸出することで利益を上げるようにしました。それでも人々のキャラコに対する需要は強く、毎日のように密輸が繰り返され、摘発者が相次ぎました。 こういう状態から、インド・キャラコの輸入を禁止するよりも、国内で綿織物を工業生産したほうが労働者を雇用できるし、国家も儲かる。イギリス政府もイギリス人も、そう考えたのです。この欲求がイギリスで産業革命がおこる原動力となったのです。 ⑦イギリス産業革命がインドの基幹産業である手工業綿布生産に壊滅的打撃を与える: イギリスで産業革命が起こると、一変してイギリスの機械製綿布がインドに流れ込んでくるようになりました。機械制大工業によって生産された安い製品が、とうとうとしてインド市場に流れ込み、その圧倒的な競争力によって、インドの伝統的基幹産業であった手工業的綿布生産に壊滅的打撃を与え、イギリスは3億人もの巨大なインド消費市場を獲得することができるようになりました。 この巨大な利益がイギリスの産業革命(巨大な資本投下を必要とする)を推進していく富の源泉となり、イギリスにとって最高のサイクル、インドにとって最悪のサイクルが構築されました。その富の源泉により七つの海を支配する大英