⑥インド・キャラコの大ブーム:
17世紀になると、オランダ・イギリス・フランスなどの東インド会社がインドに進出し、インドから「キャラコ」と呼ばれる平織り綿布を輸入するようになりました。これにより、インドは銀を得ることが出来、現物経済から貨幣経済への移行が進みました。
手織りのインド・キャラコは肌触りがよく、比較的安価で、ヨーロッパ諸国はこぞって輸入したのです。ヨーロッパに輸入されたインド綿は、17世紀末にはかなりの人気商品となりました。インド・キャラコは、異国情緒に溢れた織物であり、かつ安価でした。そして毛織物と違って水洗いが可能で、清潔に保つことが可能でした。こうした要因から、キャラコ・ブームが沸き上がったのです。
このことに脅威を感じたのがヨーロッパの諸政府でした。中でもイギリスがそうでした。
というのもイギリスは羊毛を原料とする毛織物産業が伝統的基幹産業でした。安価で人気の高いインド綿の大量流入は、毛織物産業に大打撃を与える可能性があります。そのためイギリスは、インド綿の輸入を禁止したのです。イギリスは、自国にはキャラコを入れず、他国、特にアメリカや西インドに再輸出することで利益を上げるようにしました。それでも人々のキャラコに対する需要は強く、毎日のように密輸が繰り返され、摘発者が相次ぎました。
こういう状態から、インド・キャラコの輸入を禁止するよりも、国内で綿織物を工業生産したほうが労働者を雇用できるし、国家も儲かる。イギリス政府もイギリス人も、そう考えたのです。この欲求がイギリスで産業革命がおこる原動力となったのです。
⑦イギリス産業革命がインドの基幹産業である手工業綿布生産に壊滅的打撃を与える:
イギリスで産業革命が起こると、一変してイギリスの機械製綿布がインドに流れ込んでくるようになりました。機械制大工業によって生産された安い製品が、とうとうとしてインド市場に流れ込み、その圧倒的な競争力によって、インドの伝統的基幹産業であった手工業的綿布生産に壊滅的打撃を与え、イギリスは3億人もの巨大なインド消費市場を獲得することができるようになりました。
この巨大な利益がイギリスの産業革命(巨大な資本投下を必要とする)を推進していく富の源泉となり、イギリスにとって最高のサイクル、インドにとって最悪のサイクルが構築されました。その富の源泉により七つの海を支配する大英帝国の構築が可能となっていったのです。
もともと、インド社会は村落共同体であり、土地の共有、農業と手工業の結合、カースト制度による固定的な分業に立脚していました。英会社の土地政策で、私的所有と金納地租とが導入されることによって、この村落共同体が破壊されはじめていましたが、そこへ追い打ちをかけるように、安い綿製品が流れ込んできました。農民の手紡・手織はたちまちにしてすたれ、家族は失業と飢餓のどん底にたたきこまれました。
・・・当時のインド総督が、「この窮乏たるや商業史上にほとんど類例をみない。木綿織布工たちの骨はインドの平原を白くしている」と述べたのでした。
やまとこたろう
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