⑧インド大反乱:
1857年、インドを支配する東インド会社のシパーヒーと呼ばれたインド人傭兵が反乱を起こし、たちまちのうちに北インド全域に広がり大反乱となりました。反乱軍はムガル帝国の皇帝(当時は実権はなく名目的な存在になっていた)を担ぎ出し、反乱に正統性を与え、また兵士だけでなく民衆の多くが反乱に参加しました。またこの反乱はヒンドゥー教徒とイスラム教徒も共に参加しました。
驚愕した東インド会社は軍隊を補強し、ネパールのグルカ兵(かつてグルカ戦争でイギリスと戦ったが鎮圧された)、パンジャーブ地方のシク教徒(かつてシク戦争でイギリスと戦ったが、一方でイスラム教徒と根深い対立関係にあった)を味方にし、て鎮圧にあたり、ようやくデリーを制圧してムガル皇帝を捕らえました。これによりムガル帝国は滅亡し、翌年イギリスは、東インド会社を解散しインドを本国の直接支配下に置きました。
☆エピソード イギリスの残虐な捕虜処刑:
<引用>反乱軍の捕虜には、ほとんど裁判もなく死刑が宣告された。処刑の方法は、数人ずつ束ねて大砲の前に立たせ、弾丸もろとも吹っ飛ばすとか、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人かの罪人を立たせて枝から吊したロープに首を巻き、牛に車をひかせるとか、象を使って八つ裂きにするとかいろいろと‘趣向’がこらされた。
アラーハーバード近郊の街路に沿うて、樹という樹に死体が吊され、‘絞首台に早変わりしなかった樹は一本もなかった’ほどであった。それからヒンドゥー教徒の口に牛の血を、ムスリムの口に豚の血を流し込んで苦しめたり、・・・。
また、反乱者を出したり、かくまったりした村や町には、四方から火が放たれ、火をくぐって逃げ出して来るものを、老若男女を問わず、待ちかまえていて狙い撃ちするといった手のこんだ演出までしでかした。
筆者はここで、なにも百年前のイギリス人の恥ずべき蛮行を誇張してまで告発するつもりはない。これらの行為は、イギリスの軍人じしんが‘誇らしげに’伝えた証言にもとづく事実である。<森本達雄『インド独立史』1978 中公新書 p.47-78>
やまとこたろう
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